最終更新日:2003.04.16
性同一性障害の治療の目的は、身体と性自認の不一致によって日常生活やその他のあらゆる場面で発生する精神的苦痛を、取り除くことです。
性同一性障害の本質が「身体の物質的状態と、性自認との不一致」にある以上は、それに対する医療的対処はこれらの一致を目標とすることになるでしょう。
論理的には、その方法は2つ考えられます。即ち、「精神を身体に合わせる」ことと「身体を精神に合わせる」ことです。
第3の選択として、「何もしない」という可能性もあります。当事者としては賛同しかねますが、性同一性障害が直接生命に関わるものでない以上、これを主張する人もいることでしょう。
以下では、これら3つの可能性を順次検討していきたいと思います。
精神を身体に合わせる試みは古くから行われてきました。身体に手を加える医療的技術が存在しなかった時代は勿論、それ以後も試みられています。
様々な試みが行われたにもかかわらず、性同一性障害の中核群と見られる患者の治療に成功した症例は知られていません。
正確に言うと抗精神剤の投与やロボトミー手術で性同一性障害の葛藤が解決した例はあります。しかし、これは単に、人格を消滅させたことによって最早何かを考えたり思い悩んだりすることが無くなっただけです。普通これを治療とは呼びません(し、誰だってそんなことをされたくないでしょう。人格の消滅によって事態の解決を図るのならば、もっと手っ取り早く自殺すれば良い話です)。
この方針での成功例が見あたらないという事実は、性自認が脳の性に由来するという説の根拠の1つでもあります(現在では大脳生理学の方面からより積極的な根拠が発見されつつありますが、古くはこの事実が根拠とされました)。脳の性は出生以前に確定しそれ以後は変更不能なので、脳の性に由来するという説を認めるならば、性自認が変更不可能なのは当然です。
大脳生理学の進歩如何では将来、脳神経それ自体を組み替えて性自認を変更することが可能であるかも知れません。しかし現在のところはこの方針による治療は困難若しくは不可能であると言えます。
「3分以内に、『私は○○である』という文を20個書きなさい」という実験をすると、大抵の人は性別に関する記述を1つ以上書きます。しかも、多くの場合それは比較的最初のほうに現れるでしょう。
このように、性別意識(敢えて性自認とは書かない)は個人のアイデンティティに深く根を下ろしており、分かちがたく結びついています。そのため、性自認を改変することは個人の人格そのものを入れ替える結果をもたらすでしょう。
人権思想の立場から言えば、このような洗脳まがいの治療は(それが可能だとしても)認められません。また当事者としては、私の人格を破壊するような治療はお断りです。
個人の精神を改変すると言うことに関して明確な指針を示している宗教があるのかどうか、良く分かりません。
前記のような人格と性自認との深い関連を考慮するならば、性同一性障害の治療のために性自認を改変することは日本国憲法第十九条に抵触する可能性があります。
性自認が脳の性に由来すると見込まれている以上、それを根本から修正するには脳神経それ自体を改変する必要があるでしょう。それを可能とするまでの技術開発費、及び失敗例として製造される多くの廃人に対する補償は莫大な額になると思われます。
正確な見積もりは難しいでしょうが、数千億円単位では済まないことは容易に想像できます。
以上をまとめると、精神を身体に合わせる可能性は現実的でなく、また望ましくないと言えます。
現在、先進諸国の専門家の間ではこの方針による治療は行われていません。
性同一性障害の治療プログラムの中に精神療法が含まれていますが、これは「本当に性同一性障害なのか、他の精神障害による妄想の可能性はないか。詐病の可能性はないか」を見たり、「性自認も身体も改変することなく(根治することなく)、不一致がもたらすストレスをその都度解消する形で社会適応を図れないか(対症療法)」を模索したりするものです。
技術的難易度の観点から分類すると「筋肉・脂肪・皮膚」「外性器形成、乳房・内性器切除」「内性器形成」「骨格」になります。
筋肉・脂肪・皮膚の性差は根本的にはホルモンバランスによる差異です。女性ホルモン影響下にあれば女性的な、男性ホルモン影響下にあれば男性的な特徴がもたらされます。このため、ホルモン剤投与によってある程度はこれを改変することができます。
ホルモン剤投与によって血栓や肝機能障害などが起こり得ますが、投与量の調整や定期的な検査等によって防ぐことができます。ただし、50年〜80年の長期に渡って投与し続けた場合の影響については、症例が十分にないため良く分かっていません。
結論すると、「筋肉・脂肪・皮膚の差異」はホルモン療法によって解消可能であり、その具体的療法についても若干の問題はあるもののある程度までは技術的に確立していると言えます。
具体的には「陰茎切除・亀頭のクリトリス化・睾丸摘出・陰唇形成・膣形成」(MtFの場合)、「乳房切除・卵巣摘出・子宮摘出・膣粘膜剥離・膣閉鎖・尿道延長・陰茎形成・睾丸代替物埋設」(FtMの場合)になります。
これらは外科手術により可能です。マイクロサージャリー技術の発達により、感覚を保ったままの陰茎形成も可能となりました。日々新しい術法が開発され、進歩のめざましい分野でもあります。
顕著な問題としてはFtMの陰茎形成において勃起可能性をどうやって得るかというものが残っていますが、バルーンを用いた疑似勃起等の手法が出てきており、将来的には解決するものと思われます。
現在のところ、生殖機能を有する内性器を形成する方法の見通しは立っていません。
成長期を過ぎた後に骨格構造を変える方法は、今のところ見通しは立っていません。
二次性徴前にホルモン投与を行なうことで性自認に合わせた骨格形成が可能ではあります。しかし、次のような問題があるため、基本的に国内では行われていません(ごく特殊な症例においては行われることも無くはないようです)。
性同一性障害の治療のための身体の性の変更については、技術的問題を残す分野、未踏の分野も多くあります。
しかしながら、これについては技術の発展に伴い解消の見込みが十分にあります。また、現在の技術で実現可能な範囲あっても、患者のQOL(Quality of Life, 生活の質)の向上は著しいことが知られています。
身体を精神に合わせる方針による治療は、現実的で効果的なやり方であると言えるでしょう。
性同一性障害の場合、インターセクシュアルとは異なり、脳を除く身体は完全に男女いずれかに属します。つまり、医学的に見て正常な身体であると言えます。
しかも、現在の技術では生殖機能を作り出すことはできないため、この方針による治療は「正常な生殖機能を持った個体から、男女何れでもない個体を作り出す」行為とも言えるでしょう。
医療というものが基本的に「患者に苦痛をもたらしている異常を、正常なものに近づけることで患者を救う」という形を取っているのに対して、性同一性障害はやや異質です。
個人的には、「脳がそう認識している身体こそが個人にとってあるべき身体である」と考えていますので、性同一性障害の身体は断じて正常な身体ではないと思います。しかしながら、必ずしもこう考える人ばかりではないでしょう。
「出生時の身体こそが」と思う人もいるでしょう。また、「男女いずれか出生時に近かった方の身体こそが、個人にとってあるべき身体である」と考える人もいるでしょう(前者との違いはインターセックスを認めるか否かにあります)。
性同一性障害を身体的に治療するということそれ自体に関して、倫理的な議論の余地が大いにあると言えます。ただし、当事者の実状を良く知った上で、誤認識・ジェンダーバイアスを抜きに議論していただけると助かります。
多くの宗教は人間が単純に男女に分類可能であることを前提として成立しています。また、性差を文化的に強調することを要請する宗教もあります。そのため、宗教者が性同一性障害者の存在や、身体の性を変更することに反対することは大いに考えられます。
創世記第1章27節に、次のようにあります。
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
すなわち、「男女とは神が造った人間の非連続的な2種類なのであり、神が造ったその断絶を埋めるような行為は涜神的である」とも解釈できます。
1キリスト教徒としての私は、このような聖書解釈を採っていません。しかしながら、ローマ・カトリックを初めとする多くの宗派はセクシュアル・マイノリティの存在を認めていませんし、性同一性障害であっても身体の性を変更することを認めていません。
コーランを全部は読んでいないし身近にイスラム教徒もいないので良く分かりません。
しかし、創世記の上記部分はイスラム教にも教典として入っているでしょう。また、聞いたところによると「アッラーは男と女のそれぞれに、その特徴をお与えになった」とあるそうなので、同様に認めないのかも知れません。
仏教においては性別二元論はさほど顕著ではありませんし、(女性蔑視の思想に基づいているので賛同しかねますが)女性が男性化して成仏するという思想も見られます。仏教の基本姿勢が性同一性障害の身体治療に関して批判的であるということはないでしょう。
ただし、個別の仏典解釈をみれば批判的な解釈が存在する可能性は大いにあり得ます。
神道は異性装には寛容ですが同性愛には批判的です。ユダヤ/キリスト/イスラム教(成立年代順)のように男女を峻別することを要請しているようには読みとれません。性同一性障害とみられる事例への言及は見つかりませんでした。
神道が性同一性障害および、その身体治療に関してどのように考えているのかは良く分かりません。
現状では身体の性の変更は生殖能力の破壊をもたらすので、十分な配慮をしなければ母体保護法第二十八条に抵触する恐れがあります。しかしながら、日本精神神経学会のガイドライン等の主な治療指針は、所謂ブルーボーイ事件の判例をふまえており、同法には抵触しないものと考えられています。
現在のところ性同一性障害は保険診療の対象となっていないので、当事者にとっての経済的負担はそれなりに大きなものとなっています。制度的な問題から低収入の当事者も多いので余計に負担は厳しくなります。しかし、その気になって生活費を限界まで切り詰めれば払えないことはないようです。
逆に、保険対象でないことにより、現状での社会にとっての負担はほぼ零であると言えます。
保険診療の対象としたとすると当事者の負担はかなり軽くなり、控除制度と合わせればある種の難病程度の負担で済むようになるでしょう。
一方、性同一性障害の発現率は0.01〜0.1%であるため、保険診療の対象にしたとしても、社会にとってはさしたる負担増ではないでしょう。
結論すると、性同一性障害の治療のために身体の性を変更することは、技術的実績・治療効果・経済的負担の面からみて有用・現実的であると言えます。
一方、その生命倫理・宗教倫理の側面では必ずしも十分ではありません。
当事者・関係医療者は、倫理面をよく考慮の上、問題がないと判断して治療を実施しています。しかしながら一方では感情的にこれに反発する人々も(日本では僅かとは言え)存在し、この両者の間で十分な対話が行われているとは言い難いものがあります。
今後は倫理面について、事実関係を良く理解した上で深まった議論が為される必要があるでしょう。
これ以上易しい選択肢はありません。
現実に苦しんでいる当事者がおり、しかもそれは先天的なものであって当事者の責任・選択によるものではないことを考えてください。その問題を(完全ではないとはいえ)解決する技術があるにもかかわらずそれを行わないことは、重大な人権侵害である可能性があります。
身体の性を変更することの倫理的問題の可能性と考え合わせた上で、十分な検討が為されるべきです。少なくとも、思考停止の結果としてこの結論を導くことは倫理的に問題だと言えます。
このあたりの検討については、別項を設けて記述したいと思います。
「人を救える状況にあるのに救わない」ことを良くないこととしている宗教は多く存在します。
例えば、マルコによる福音書第12章31節には最も重要な掟の1つとして『隣人を自分のように愛しなさい』
とあります。また、それについての一例として、ルカによる福音書第10章25節〜37節には、有名な「良きサマリア人の喩え」があります。隣人とは誰か、どのようにすればよいのかを問う律法学者に対してイエスは言います。
ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」
さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」
そして、言います。
行って、あなたも同じようにしなさい。
祭司やレビ人は当時徳の高いとされていた人ですが、彼らは追いはぎに襲われた人を助けませんでした。民数記第19章11節にはどのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる
とあるので、襲われた人が死んでいるかも知れないと思って彼らは近づかなかったのです。
これに対して、当時蔑視されていたサマリア人は汚れを恐れることなくその人を助けます。
イエスの教えは、「教条主義的な倫理や道徳よりも、もっと大切な根元的なものがある。それを大切にしなければならない」「まず、困っている人に対してできることをしなさい」とも読みとれます。
聖書解釈は宗派によっても異なり、私も上記の解釈に確信があるわけではないですが、「何もしない」という選択肢はイエスの教えに反する恐れがあります。
他宗教においても、似たような教えの存在するケースは少なくないでしょう。
性同一性障害者は日常生活をするだけで非常なストレスにさらされ続け、それを解消することも難しいため、大きく生活の質が損なわれています。
性同一性障害に詳しい法律関係者の間では、性同一性障害の戸籍変更の根拠として日本国憲法第十三条の幸福追求権に対する抵触が指摘されています(大島(2001))。そもそも何らのケアをしないと言う選択肢に対しても、同様のことが言えるのではないかと思います。
これ以上低コストな選択肢はありません。
患者数の少なさを考えれば、患者の人生の質が損なわれることで、めぐり巡って社会が経済的損失を受けるという問題は無視できる程度と思われます。
何もしないというのは、非常に楽な選択肢です。低コストです。少なくともこれまでになかったような問題を引き起こす恐れはありません。
特に現状での性同一性障害の治療に関しては、治療行為に倫理的議論の余地が常に付きまとっています。議論の結果として「何もしない」選択肢を選択せざるを得ないかも知れません。
しかしながら、それはよくよくの検討の上に社会的合意を経て決定されるべきであって、単に事なかれ主義からこの選択肢を選択するのはあまりに安易だと言えます。性同一性障害の深刻さを考えれば、それは怠慢による人権侵害であると言えるでしょう。
この文書の内容に関して、現在、次のようなご意見をいただいています。このご意見に基づいてもう少し勉強してから記事を書き直す予定ですが、それまでの間とりあえず、いただいた意見を紹介しておきたいと思います。
最後のものに関して言えば、方針にあります通り、この記事は「医療は何をすべきか」「それは正しいのか」を吟味しようとしたものですので……。私の想像力と見聞の範囲内では医療が採りうるアプローチは記事中に上げた3つしか見つかりませんでした。
ただ、指摘していただいたような解釈を招くような構成だったかも知れません。何とかしたいと思います。