上の記事を読んで、一瞬VS2005を買うのをやめようかと思った。なにやらあつい口調で語っているけれど、全然凄くない。
一連のLLDNの記事はいつもの私の文章よりジャーゴン多めだな〜。今日、マネージャーにLLDNの報告をして、そこで話したのだけれど、参加者層を特徴づける1つの性質はジャーゴンとかそういうのが通じる層ということだろう。「orz」や「ry)」が当たり前のように通じる。高橋さんのRailsのプレゼンの最後に出てきた、
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がジョークとしてきちんと通じる。そういう層なんだな。早く言うと言語ヲタと。
……とか言ってる間に、いろんな人がLLDNレポートを書いているのでメモ代わりにいくつかリンクしてみる。
Debian sargeに、sidから取ってきたtomcat5, tomcat5-adminの5.0.30を入れた。これ自体はaptitudeで簡単。ところが、adminアプリケーション内で例外が発生して動かない。どうやら、5.0.30の"Struts-Config.xml (fix for Admin Webapp)" が適用されていない模様。server/webapp/admin/WEB-INF/struts-config.xmlを、Jakartaから落としてきたもので上書きしたら動いた。
小野塚カホリという漫画家、以前『SHIMI』を読んだときにはそのどろどろの欲望の描写についていけなくて、今ひとつピンとこなかった。今日、何となく買ってみた『楽園の南』を読んだけれど、これは良かった。好きな作家になりそうな気がする。
このきな臭くも平和なご時世にあって、創造する余地の無い追いつめられた感じ、そういうものを表現できる作家が、私は好きだ。全く系統は違うけれど、多分私が『楽園の南』を気に入った理由は高河ゆんを好きな理由と同じだろう。自己の存在/存続/であること/
彼女たちの描く人物像を見ると、私はsolverだなーと思う。しかも、きっとダイクストラ法だ。それって生き方としてはどうなんだろう。あぁ。こんな連想をするのは、『楽園の南』を読んだのがセマンティクウェブにおける推論機構の解説を読んだ直後だったからだろうか。
私の望みは叶わないという確信の下に、ただ、かつて感じた憤りの導くところに従って、別に望んでもいないけれどせめて実現せずには納得のしようもない、そんな目的に向けて、私は進もうとする。この演繹連鎖の枠組みを超越して、ただ欲しいと思えるものがあって、そのために時間を使える日が来たなら、多分満たされるんだろうなと思う。そういうものに出会えるだろうか。
最近、スケジュールが僅かにでも狂うと酷く混乱して狂乱するようになっていた。そして、気がつけば、以前は部屋のものの配置に対してよく分からない非合理的な意味づけをして僅かにでも物が動いていると許せなかったのだけれど、その状態は改善している。
塚田先生に指摘されて気付いたけど、それって強迫症状だろう。言われてみればそりゃ確かにそうだ。それで、強迫症状においてこだわりの対象が移り変わるのはよくあることらしい。パキシルは強迫症状にもいくらか効くので、あまりそういう症状が辛いようならパキシルを1錠多く飲むように、と言われた。
何にしても、狂乱状態それ自体はしばらくすればコントロール可能であるからそれほど問題ない。一番困るのは、その状態を収拾すべく立ち上がってくる私の中の「冷徹な観察者」が現況における自然状態での私と身体感覚の不一致を検出して、結果として性別違和による否定感覚を呼び覚ます引き金となることだ。こうなると、否定感覚が更なる混乱を招いて悪循環となる。
ここしばらくはずっと、極めて調子が良かったのだけれど、昨日の朝、ちょっとしたことからこの悪循環に陥って、またしても歩行にも支障を来すレベルまで悪化した。とにかく、今日の午後には継続した意識活動が可能となるまでに回復してきて、何とか通院もしてきたので、あとはゆっくり症状の改善を待とう。
数学を専門に勉強したことのある人間なら誰でも一度は疑問に感じるであろう。何故、世間では「数学は答えが1つ」という慣用句がまかり通っているのか。以下、数学系の人には耳にタコができているようなどうでもいい話です。
本日朝までのリリース予定のところ、多少いんちきをしつつも昨夜(今朝?)3時に終了。つかれたー。お仕事のネタはいっぱい仕入れたとはいえ、本当にこの状況下でよくもまぁコミケ行を許されたもんだ。
それにしてもボトルネック部分を洗い出してみたら、随分と色々あった。8:2法則通り、コード量にしたら大した分量ではないけれど、そこを弄っただけでぐっと高速化された。
考えてみると、銀座と秋葉原って電車ですぐなんだよね。日比谷線なら一本だし、丸の内線でお茶の水で降りても遠くない。どうせ私が行くのは秋月電子とかだし。
先日、ケビン嬢とマリアージュ・フレールでお茶を飲んだ帰りに、なんとなく途中下車してみて気がついた。それにしても、優雅なフランス流紅茶と猥雑な電子街のギャップは激しい。
蔵書目録を作りたいのだけどとにかく2300冊近くあるわけで、入力が大変なのでバーコードリーダーが欲しいなーと思っていた。先日、秋葉原のジャンク屋をあちこち覗いてみたら、「リサイクルショップ バース」でRP2500KBが一山出ていて、1本1000円だったので買ってきた。PS/2のキーボードとして認識される仕掛けらしい。コアのデコーダだけ生きてれば儲けもの、他は直せばいいかと思ったら、そのままで動いた。
今メインで使っているキーボードがPS/2なので、別経路で繋ぐべくPS/2 -> USB変換器をかましてみたところ、見事読みとり成功。どうせ遊びなので、芸の幅を広げるべく、何か未経験のミドルウェアを使って蔵書管理システムを組んでみようと企み中。データはAmazonのWeb Serviceで取得するとして。
それにしても、どうも最近旅行業務の勉強ばっかりしていたら半田鏝が恋しくなってきた。PS/2キーボードポートの仕様を見る限りでは、私の知識でも頑張ればどうにか色々作れそうではある……とか色々夢想もしてしまう。テスト前になると関係ない勉強をしたくなるっていうアレだとは思うけれど。
でも、考えてみると今の会社に来たときも「ここの係数をいじると1次キャッシュのヒット率が云パーセント上がって、分岐予測がどうので、平均0.8clock縮まった。わーい」っていう世界からいきなりJ2EEに来たんだよね。我ながらどうして極端から極端に走るのか。
物語を作る際に、使い古された不幸のエピソードを用いても全然リアリティがないという批判をときに目にする。借金で一族離散とか、継母に虐待されるとか、そんな聞き飽きた不幸を並べ立てられても全然リアルじゃない、と。でもこれって本当にリアルじゃないんだろうか。ありがちで、世間にいくらでも転がっているからこそ、使い古されているんじゃないだろうか。それとも、私の身の回りが偏り過ぎているんだろうか。
私の身の回りが些か偏っているのは否定しない。類は友を呼ぶという通りに、所謂「メンヘル女」のメンタリティとそれ相応の経歴を持った知人が多いのは確か。けれども、一般に「使い古されたありふれた不幸」の1つぐらい誰しも背負っているものじゃないだろうか?
逆に、「二親ともそろっていて仲が良くて、少なくとも片親には定職があって、親の借金の取り立てに怖い人が押し掛けてくるような環境じゃなく、さりとて親族の遺産分け争いもなくて、身体的虐待も精神的虐待も性的虐待も受けたことがなくて、命や自己存続に関わる病気も持っていなくて四肢は不自由なく、性犯罪被害にも遭ったことがなくて、恋人が殺されたこともないし、恋人からDVも受けてない人」なんてものが本当に実在するんだろうか。こうして書き上げてみると実在したとしても極めて特殊な事例としか思えないけれど。
並べてみると本当に、どれか1つぐらいは誰でも当てはまる極々普通の条件だよなーと思う。リアルじゃないっていうのは、こういう普通のことをさも特別なエピソードであるかのように扱っていることを指すんだろうか。ちょっとニュアンスが違う気がする。じゃあ、その「リアルな、普通の人」っていうのはどこにいるんだろう。それは普通の人の普通の生活の平均としてのみ浮かび上がる虚像であって、個数の平均をとっても自然数になるとは限らなくてむしろ大抵は小数部を持つのと同じで、その「普通の人」そのものは実在はしないんじゃないかと、ふと思った。
近所の書店、品揃えが妙なんだよね。地方の中小書店の普通のラインナップとは違ってマニアックな本がかなり置いてある。かといって定番は定番できちんとおさえているし、でも都心大規模書店の縮小版というのとも少々印象が違う。あの店で初めて存在を知った本がたくさんある。どういう理由でああいう品揃えなのか気になって仕方がないけれども、とにかく通い詰めたい本屋ではある。
夜道を歩いてみた。これも久しく絶えていた趣味の1つではある。幸いにしてこのあたりはまだ治安はいい。
この季節のことだから、虫の声で無音からはほど遠い。でも人工音はない。当たりに人影もない。足音が響く。体が暗闇に溶け込んでいくような感覚にとらわれる。溶け込んでいくのは「役割」だ。関係性だ。輪郭が曖昧になって、逆説的に聞こえるかも知れないけれど、そうして私は私の輪郭を思い出す。普段、私の輪郭がどういう形をしているのか、を。
最近、早寝早起きしすぎていたかもしれない。朝日を浴びる不健康な生活。私は、私たちはそういう風にはできていないということを、思い出した。もっと暗闇を。
昔、森の中に横たわったことを思い出す。森の中はいつでも植物と小動物で騒がしい。鉱物でさえひそひそと語っているように思える。それは無音ではないけど、でも静かだ。あるいは、広がる水田の中を一人で歩いていったことを思い出す。見える限りの中に、私以外の人はいない。
これが必要だ。これが本質だ。裏地は黄色のマントを羽織い、カンテラを掲げて歩く老人。その背景は暗闇でなければならない。
今日のことはちょっとだけ回復のヒントになったかも知れない。寝静まった夜の住宅街、息づく夜の森、真っ黒にうねる水田。その中を一人で歩いていく。私はそれを望んでいたんじゃなかったのか。手段や目先のことにとらわれて一番の目的を忘れちゃいなかったか。陽の下を歩くのは目的のものを手に入れる過程であり手段に過ぎない。私が築こうとしているものは、もっと永続的なもっと確固たるもの。もっと穏やかで、もっと冷たい、staticな思索だ。その背景には暗闇こそがふさわしい。
もっと暗闇を思い、食らい、味わわなければならない。