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2006年09月26日

Re: 性・性別とは何か : それは違うと思うんだが

伊田広行さんの「性・性別とは何か・・・バックラッシュ派の無理解」を読んだ。

性という概念が遺伝子、解剖学的性的二型にまつわる状態、背負っている文化的属性、性的指向、性的魅力あるいは性的行為に関する好みなどなど多くの観念を含むものであるのは確かだと思う。これらを見過ごして生殖のための性にのみ集約させて議論することは、性の深み、豊かさを否定することであり、現実に起きている事象を適切に記述することの放棄である。性というものが本当に、性的指向から導かれる文化というようなものを含まないで議論できるような、生殖のための性に集約可能なものであったとすれば、異性愛者間の恋愛ですらひどく貧しいものであるだろう。

その意味で、私は伊田さんと同様に性概念の豊かさを前提とする議論を指示するものである。けれども、私はそれゆえにそもそも男女共同参画社会基本法の「男女が性別による差別的取扱いを受けないこと」という表記に反対であるし、この表記をしているからには男女共同参画社会基本法には「同性愛・両性愛者についても言及」はしていないと解釈するのが妥当であると考える。その点ではバックラッシャーを支持する。

というのは、性を構成するさまざまなファクターを空間としてに眺めたときに、「男」「女」という表記によって暗黙に仮定されるマジョリティの存在は必ずしも最大/最小元ではないからだ。数学の人間からすると、人々がかくも、任意の集合について自然な順序が定まることを仮定しているのは奇妙な風習に思える。

「男」「女」という概念を成立させるのはなにがしかの境界線定義と射影であり、それなしにはそもそも「男」とか「女」というものが何であるのか分からない。そして、「男」「女」という表現を使った途端にその文脈においては性概念へのその射影/境界線定義の適用が暗黙に語られている。

私は、「その射影は本当に必要なのか」「その射影によって潰される差異はその文脈において本当に必要ないのか」という点が疑問であるから、共同参画法において性を表現するにあたり「男女」という表現を用いることは望ましくないと考える。けれども使われているからには共同参画法は多様な性を男-女というひとつの軸線上に落とすような射影を行っているのであり、そこに軸線から外れる性的指向などの要素を付け足すことは不適切な読み方ではないかと考える。

私がその参画法に言いたいのは、「男-女」という射影を行って性的マイノリティの存在をもその軸線に強引に繰り込むことをしたからには、男-女の違いによって差別をしないのは勿論のこと、法的文脈において区別をすらしていない性的指向やその他諸々の属性による差別など言語道断なのだろうね、と。豊かな現実に対して一定の射影を行ってモデルを構築するからには、その責任は行政がしっかりととるのだろうね、と。そういうことだ。

性別って、射影ですよ。



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