MacOS Xのターミナルで日本語入力をしようとしたものの、お約束通り化けたり、それは直っても今度は日本語入力時にそれが化けたり。直ったと思ったらbashでは良くてもzshで化けたり。screenを介すると化けたり。iTermなら問題ないけど、なんかスクロールが重いし。
あちこちから情報をあつめて、こんな感じにしたら直った。
伊田広行さんの「性・性別とは何か・・・バックラッシュ派の無理解」を読んだ。
性という概念が遺伝子、解剖学的性的二型にまつわる状態、背負っている文化的属性、性的指向、性的魅力あるいは性的行為に関する好みなどなど多くの観念を含むものであるのは確かだと思う。これらを見過ごして生殖のための性にのみ集約させて議論することは、性の深み、豊かさを否定することであり、現実に起きている事象を適切に記述することの放棄である。性というものが本当に、性的指向から導かれる文化というようなものを含まないで議論できるような、生殖のための性に集約可能なものであったとすれば、異性愛者間の恋愛ですらひどく貧しいものであるだろう。
その意味で、私は伊田さんと同様に性概念の豊かさを前提とする議論を指示するものである。けれども、私はそれゆえにそもそも男女共同参画社会基本法の「男女が性別による差別的取扱いを受けないこと」という表記に反対であるし、この表記をしているからには男女共同参画社会基本法には「同性愛・両性愛者についても言及」はしていないと解釈するのが妥当であると考える。その点ではバックラッシャーを支持する。
というのは、性を構成するさまざまなファクターを空間としてに眺めたときに、「男」「女」という表記によって暗黙に仮定されるマジョリティの存在は必ずしも最大/最小元ではないからだ。数学の人間からすると、人々がかくも、任意の集合について自然な順序が定まることを仮定しているのは奇妙な風習に思える。
「男」「女」という概念を成立させるのはなにがしかの境界線定義と射影であり、それなしにはそもそも「男」とか「女」というものが何であるのか分からない。そして、「男」「女」という表現を使った途端にその文脈においては性概念へのその射影/境界線定義の適用が暗黙に語られている。
私は、「その射影は本当に必要なのか」「その射影によって潰される差異はその文脈において本当に必要ないのか」という点が疑問であるから、共同参画法において性を表現するにあたり「男女」という表現を用いることは望ましくないと考える。けれども使われているからには共同参画法は多様な性を男-女というひとつの軸線上に落とすような射影を行っているのであり、そこに軸線から外れる性的指向などの要素を付け足すことは不適切な読み方ではないかと考える。
私がその参画法に言いたいのは、「男-女」という射影を行って性的マイノリティの存在をもその軸線に強引に繰り込むことをしたからには、男-女の違いによって差別をしないのは勿論のこと、法的文脈において区別をすらしていない性的指向やその他諸々の属性による差別など言語道断なのだろうね、と。豊かな現実に対して一定の射影を行ってモデルを構築するからには、その責任は行政がしっかりととるのだろうね、と。そういうことだ。
性別って、射影ですよ。
そうか、Railsのformの入力要素のidを階層化するのに[]を使うという文化は、あれはPHPと同じなんだ。
DHHはPHP出身だし、PHP文化が由来なのかな。やっぱりPHPはテンプレート言語だなー。
「リモート開発におけるチームワークの向上」を読んで思った。私は社内SNSがコミュニケーションを促進っていうのは、もはや素で1:1のコミュニケーションを全員と行うのが難しいような規模になって初めて出てくる側面かなと思って、あまり注目してなかったのね。いまのところ、うちの会社には必要ないかな、と。でも、リモート環境っていうのが確かにあるよなー。それに、新入社員に対して、在職者の顔が見えやすくていいなーと。
私はアナログ人間だし、お昼に音楽話をしたりお菓子を買ってきたりというのを重視するから、リモートでの業務を推奨はしたくないけれど、でもローカル/リモートを問わず、SNSを中心に据えることによる士気の向上はあるに違いない。と、ようやく理解した。
で、以下のように社内インフラ次期整備案を考えてみた。
この前の記事で初めて使ったけど、「弊社と契約を」メソッドというのがあると思う。
これって、日本弁護士会とか最高裁とかその手のお金はあるはずの組織から無断リンクについていちゃもんをつけられたら使ってみようと思ってたメソッドなんだけど。
つまり、「はぁ? 無断リンクされると不都合がある? どんな不都合がありますか? webの慣習やBerners-Leeの思想に照らして妥当でしょ? え? はぁ、なるほどそういうことですか。左様でございますか。それは、おそらく御社のweb管理を担当している会社の体制に問題がありますね。どうでしょう、弊社でしたらよりよいサービスを提供できるかと存じますが、よろしければ一度弊社の営業の者がご挨拶に伺いますので」とばかりに。文句があるなら金をくれ、と。勤務先がWeb系だと便利だね。
というわけで、無断リンクと限らず、真っ当な予算を付けて真っ当な会社に発注していれば生じないはずの問題をうちのサイトのせいにしていちゃもんをつけてくる類いの組織には、翌営業日に弊社営業が伺いますので悪しからず。
食卓に掛けて『ハンニバル』を見ていたら家族が帰ってきて夕食となったので、家族みんなでレクター博士と晩餐を楽しんでしまいました。食べている肉が何の肉やら、少し不安になってくるですよ。
でも、レクターの趣味の良さと狂いっぷりはやっぱりかっこいい。アンソニー・ホプキンスの名演です。
ここまで、RailsでABDもどきをやってきたところから、ABD (Activity Based Modeling) の体系を想像する(1)の「謎と課題」に回答してみる。
天使が舞い降りてもの喪失のフレーズが響き渡るって書いたけどさ。前に。
客観的に見てどうだかは知らないけれど、少なくとも私の主観においては私はずっと失いつづけていて、で、極めて保守的な人間なんだ。これ以上何かを失わずにすむならば、もう何も得られなくても良い。常日頃は意識しないように訓練しているけれども、でも、私にとって日々は喪失だ。性別違和の下に置かれたまま意識を継続することそれ自体が喪失だ。常に負値だもの。その積分は単調減少だ。
だから、誰にも何も失ってほしくない。誰かが何かを失うことに耐えられない。そして、耐えられないが故に自分が誰かから何かを奪うことにひどく"被虐"的な愉悦をすら感じる。私が望むのは停滞であり、不変である。分かってる。私にとって「この世界は解決を待っている魅力的な問題でいっぱい」なのは自暴自棄の一種に過ぎない。何も変わらないことを望むけれども、それが叶わないことが分かっているので、ならばあとでどうなろうとも面白く変えてしまえと言っているに過ぎない。
騒げ騒げ、もっと騒げ。
絶望した人間に恐いものはない(故に、真に保守的な強者は自己の利益の最大化のためには、絶望した弱者を生み出してはいけないのだけれど)。でも、唯一恐いのは喪失だけが永遠であることだ。私が得たものが全て滅びても、私が築いたものが全て滅びても、私自身が滅びても、私が喪失したという事実だけは永遠だからだ。死こそが最終的な勝利者であるとは誰の言葉だったか。
在るということ、在ったということ、それがたまらなく哀しくて恐ろしい。