鬱文書注意。
人間、リミッターが外れると馬鹿力が出るというのは本当なのね、と、家具の部品を引きちぎって思った。
哄笑しながら転げ回って、片腕が頸動脈を目がけて襲ってくるのを自制しながら、気がつけば支柱を引きちぎっていて。
腕が襲ってくるというのはあくまでも私の中の自己破壊の意志がそうしたがっているということの比喩なんだが。首を絞めようとしたり、左目を剔ろうとしたりしてくる。他に表現のしようがない。だけれども、比喩が比喩なもので塚田医師には「それは誰かに命じられているような感じ?」「声が聞こえるとか?」と心配された。その種の妄想症状ではないと思うんだ。多分。あくまでも私の一部分に、病状としての自己否定感の結果そうしたいという願望があって、それが自己保存欲求と戦っているだけで。
時折こんな感じになるし、電車内はパニック発作も起こすから外出はかなり厳しい。私なんか死ねばいいのに。多分ね、拳銃でこめかみを撃ち抜いたらすっきりすると思うんだ。法の網をかいくぐって拳銃を入手するほどの積極的なアクションを起こすような気力が残っていない病状に感謝感謝。
私ゃ、まだ正気だよね?
たとえば、なぜ凶悪犯罪者にも人権を認めなければならないのかという議論があったり。区別されるべくして区別されている人々を区別してはいけないのかとかいう、たとえば、元ハンセン病患者の宿泊拒否事件にいて唱えられたようなそういう素朴な疑問を口にする人がいたり。
件の宿泊拒否事件でのホテル側の対応が理由ある正当な区別なんかじゃなく、まごう事なき不当な差別行為であり人権の蹂躙であるということはもう繰り返さないよ。で、さて、こんな面倒な議論をしてまで人権を守らなければならない理由とは何か。
単純に、人権はいかなる人間であれ保障されなければならないというドグマを皆が信仰していなければ皆にとって危険だからだろう。
特定の理由により人権が保障されない社会システムはルサンチマンを呼ぶ。その溜まったルサンチマンはどこかで吹き出す。私は唯物史観を支持しないけれども、その用語を借用して「不断の階級闘争」と擬してもいいだろう。いや、ここでは階級の転倒は本質的な問題ではないからミスリーディングな用語かも知れないけど。ともあれ、当人にとって不当な理由で人権が剥奪されている階級が存在するシステムというのは、システムが本来保護するはずだった人々にとっての脅威でありつづける。
だから、一番楽な選択肢として万人に人権があるというドグマを信仰するんでないのかな。システムにとっての外部が存在しないのなら、外部からの脅威というのは存在しようがないのだもの。
ま、歴史的には、外部を持つような差別システムを構築してはみたけれども実際にその脅威が向かってきて、その力の前への妥協として被差別集団の人権を認めてきたという部分もあるよね。
早い話が、踏みつけられた人間の恨み辛みを舐めるなよ、というか。システムの存続のために、「何も悪いことをしていない真っ当な人」の健やかな社会精神生活を守るために「そうあるべくして生まれた自己」が収奪され続けるなら、その恨みはシステム全体に向かうだろう。「ブルジョアの豚」とかいうそっち方面の分かりやすい表現はシステムそのものへの憎悪をはっきりと示しているよね。
そういうわけだから、多少の不合理はあっても(そもそもそれが不合理であったのかどうかは大いに議論の余地があるけれども、仮に不合理があったとしても)、人権主義というドグマを守るためなら、最終的にはそれがより多くの人の幸せに繋がるんでないかな。
なんていうかな、犯罪歴のある人間を無用に排除したりとか何というアホなことをしているのかと思う。そうして、特定の人々を闇の中に追いやって、その蠱毒の中からはい上がってくるものが向かうのは結局は昼の人間なんだってばさ。自分用の蠱毒を作ってどうするのさ。この社会ってのはひょっとして自殺が趣味だったりするんだろうか。悪趣味なことだ。
群動詞(句動詞)が英語の語彙生成機能の中で一番英語らしい(ゲルマンらしい)ところってのは分かってるけど、生成されるときのニュアンスがなかなかつかめなくて嫌いだ。結局今のところ丸暗記に頼ってる。ギリシャ語/ラテン語/中フランス語由来の接辞による生成のほうが好きだな。こっちは自然に頭に入るんだよね。だから、語根だけ覚えれば個々の単語を暗記しないで済む。
その辺、チャンポンにして何でも生成するのが英語の学術言語としての強さなんだろうけどさ。ラテン語に合成名詞がない(ということらしい)のはちょっと意外だった。ドイツ語とか英語の述語に慣れてるととても不便に感じる。
そのとき私は選択肢は2つしか残っていないと思って、そして生き残ったけれども、でも、3つ目の選択肢があったのだな。
私にとってはどうでもいい日々街ですれ違うような人々を、もっともっと大切に思って忘れないという選択肢が。
他人が愛おしくて絞め殺しそうだ。
そこに手を染めないということが私の有り様を象徴し、その故に今の私がある。
ただ、選択を迫られたそのことを忘れてはいけなくて私は私をdumpする。
『All You Need Is Kill』を読んだ。誰かの書評を読んで興味を持って買ったのだけれども、誰のものだったか忘れてしまった。まあいいだろう。私はその人に感謝の念を伝えることはできなくて、ただAmazonのシステムがその人に幾ばくかのアフィリエイト紹介料を支払う。それだけの繋がり。そんな関係がこの小説には似合っている。
『よくわかる現代魔法』はあまりにも「ライトノベル」然としていて、技術用語の転用もいらいらしそうなので読んでいない。ギートステートはずっと追いかけているけれども、書籍としては私が初めて読んだ桜坂洋の小説だ。
この小説にしても最初はあっさりした味で文体もややライトではあるのだけれども、骨太で後味は意外に重厚だ。昨今のライトノベルのバターケーキのようなしつこい甘さやとってつけたようなグルタミン酸ナトリウムの味にはうんざりしているけれども、でもなんか手軽なものを読みたいという最近の私みたいな人にはおすすめである。良いものを読んだ。
前にも似たようなことを書いたけど、もう一度。
"Web+DB Press"を読んだ。祝40号だそうだ。乙。「小飼弾のAlpha Geekに逢いたい」の中で、Dave Thomasが言ってる。
ソフトウェアエンジニアというものはありません……(中略)これ以上削れないというところまで削るのがエンジニアリング。……(中略)まだソフトウェアに関して我々はそのレベルには達していないんです。
そう。これは疑問だったんだよね。Daveは「まだありません」という立場みたいだけど。
ハードウェア開発がソフトウェア開発よりもよく工業化されているとは思えないんだけど、どうしてソフトウェア開発をハードウェア生産のように工業化しようという発想が出てくるのかな。ソフトウェアの工学なる奇抜なアイディアが、極限定的かつ特殊な状況で成功した事例はあるにしても一般化できるという根拠をどこに見いだすのかな。
とずっと疑問に思ってるのに分からず、誰も教えてくれるわけでもなし。『ピープルウェア』を読んで激しく頷きながら、更に謎が深まっていくのを感じるのであった。職人集団だって有効に機能し得るし、プログラマというのは非属人的・反復的なことを全て自動化する人種だからプログラミングの現場で人間が為すべき仕事は必然的に属人的かつ非反復的になると思うんだよね。
Xtalの仕様がRubyの仕様の議論に影響を与えはじめている!
こうして言語は切磋琢磨して発展していくのですね。
私のキャリアはほとんどがちっこい会社だったから、開発者が社内情報システム部みたいな業務もやるわけだ。これはもう完全に間接部門で、他の部署の仕事を下から支えるための仕事だ。
その立場から見ると、世の中で見聞きする経理とか総務とかのお役所的お仕事の様子はお気楽極楽だなぁと思うことがある。つまり、他部署に負荷を掛けないという視点が欠如しているように見える。管理上必要なことを管理するというのはもう当たり前の話だ。それは言い訳にならない。社全体のインフラたるならば、為すべきことは為した上でどのように全体の負荷を減らすかということを考えなければならないんでないのか?
ま、今の会社は、特に総務はそのへん融通が利くから良いんだけれども、でも世の中でしばしば耳にする経理上の手続きというのは本当に面倒だ。それが小さな会社であっても。現行の業務プロセスにおいてはその種の手続きを他部署が踏んでくれないと経理サイドは管理上必要なことを知るきっかけがない、というのは分かる。理解する。けれども、経理上知るべきことを知るのは君らの仕事であって、他部署の仕事じゃないでしょ? なのに何で、平気で他部署に「○○のときはこの書類を書いて◎◎の印を貰って提出してください」とか言えるんだろう。それをプロフェッショナルとして恥じる気持ちはないんだろうか。
社内情報システム部門が、管理上統制上において必要なことを把握しようとするとき、システム上の都合で何かを変更するとき、新しいフローを導入するとき、他部署の負荷が少ないようにそれはそれは気を遣うものだ。ちょっと探してみても、 どうしたらフローを現場に受け入れてもらえるのか、どうしたら余計な手間を掛けさせないで済むのか、なんていう記事が雑誌やwebに溢れている。
書面のようなトリガーがないとアクションの発生を把握する術がないのかもしれない。でも、それは電算化前の話でしょや? 必要なときに、現場に負荷を掛けないでトリガーがfireするような仕掛けを情報システム部門と相談しなさいよ。で、情報システムの存在を前提に業務プロセスを根本的に見直した方が良い。
間接部門が他部署、殊に直接部門に何か少しでも手間を掛けさせるなんて恥だと思う。ちっこい会社の情報システム部門が、ま、ある程度大きな会社の同族の話も小耳に挟みながら思ったのはそういうことだ。お金にまつわる法制上の色々だの簿記の細かいところだのは深くは知らないままの勝手な意見なので反論は歓迎する。というか、その辺実際改善の余地はないのか是非教えてください。
きーたーみーさーん。
「キーボード拘るっしょ」を読んだ。「SEなら、当然キーボードにこだわるよね?」へのつっこみ。
ま、拘らない人も多いのは認めるけどね。でも、でも、和田先生も言ってるんだ。
米国西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬はそこに残していくが、どんなに砂漠を歩こうとも、鞍は自分で担いでいく。馬は消耗品であり、鞍は自分の体に馴染んだインタフェースだからだ。今やPCは消耗品であり、キーボードは大切な、生涯使えるインタフェースであることを忘れてはいけない。
私の知ってるすごい人たちもやっぱりHHK最高とか、何かしら一家言は持ってる。私はまだ最高のキーボードには出会えていないけど(HHK Proは、他は完璧なんだけどあと少しだけ私の好みから言うとキーの重みが足りない)、でも出会えた日には5万やそこらは惜しくないですよ。
なんか、業態に大きく依存しそうなのも確かだけどね。SSHで作業する分にはどこのサーバーいじるにも自分のキーボードが使える。まして、今時大抵のクライアントマシンはUSBキーボード認識してくれる訳ですよ。私ゃ、出張のときはキーボードだっこしてピコピコハンマー担いで電車に乗ってましただよ。いっそこう言ってしまいたい。
「プログラマならキーボードは肌身離さずだよね」
適性・適職 診断 @ 福島人材派遣センター、やってみた。うさんくさいのは分かってるんだけど、こういうの好きなんだよね。某かの真実が含まれてる気がして(いや、だから、それが錯覚なんだってば)、で、自己分析のよいきっかけになる。
『夢見る』『統率する』
気質です。
良い精神状態の時
心温かい・思いやりがある・表現力が豊か・独創的
単刀直入・誠実・精力的・気取らない・自信がある
悪い精神状態の時
意気消沈する・自意識過剰・片意地・気まぐれ
反抗的・鈍感・傲慢・自己中心的・懐疑的
性格
豊かな感性を持つ芸術家タイプ。音楽や芸術を愛し、エスプリに富んでいる。深い情愛で他人と接し、心温まる関係をつくることができる。
何事にも第一人者になろうとする自己主張タイプ。自分より弱い立場の人を守ろうという意識が強く、多くの人から頼られる存在。
注意
自分が周囲に理解されないと、自分を悲劇の主人公に仕立てて無気力で退廃的になり、殻に閉じこもってしまう場合もある。
力の絶対性を信じ、周囲を完全に支配することを望む。自分に敵対する人たちの欠点を徹底的に攻撃する闘争的な態度をとる傾向もある。
仕事
自分の独創的な探求を支えるために、芸術や言語を手段とする音楽家、小説家、ジャーナリストなどの仕事に向いています。
主導権を握るのが上手なので、起業家、経営管理者、労働組合指導者、スポーツ選手などに向いています。
いかがでしたか?
己を知ることが、困難に立ち向かい、道を切り開くための第一歩とも申します。
この結果は必ずしもあなたのすべてではございませんが、あなた自身がお選びになった一つの方向でもあります。
これを機に、少々違う世界を覗いてみてはいかがでしょうか・・・。
労働者にとってのリスク、じゃないよ。経営にとってね。
前に書いたアルバイトの彼は、結局まだ居る。少なくともいきなり辞めるっていう線はないみたいね。なんか「それも申し訳ない」とか言ってるし。アルバイトで、そのお給料でそこまで義理を感じる必要ないと思うけどね。そりゃ、学生のアルバイトとしては高いかもしれないけど君の技量からしたらそう高いわけでもないよ。ま、会社としてはありがたい話だ。
そうして考えるとお給料の額を決めるっていうのは恐ろしい話だよなー。日本の労働法制じゃ正社員は「要らなくなったから」って簡単には切れない訳で、だから一度採ってしまったらその給与はとにかく毎月出て行く訳だ。これは今更言うまでもない話。
で、一方できるだけ低くすれば良いってもんでもない。私だって、給与の高低だけで会社を選んだりしないというか、それはかなり優先度の低い検討項目なわけだけど、検討項目ではある訳だ。他の項目が似たり寄ったりなら高いほうを選ぶし、高く評価してくれればそこに「誠意」を感じる。
してみると、忠誠なんてものはそうそうお金で買えるものではないけれども、給与を決定する場面というのは数少ないその機会。忠誠あるいはそれに類するものをお金で買う千載一遇のチャンスなわけだ。給与額面だけじゃなくて福利厚生も含めてだけどね。給与はそれだけでは労働力との等価交換に過ぎない訳だけど、そこにほんのちょっとの上乗せをすれば忠誠を買える。上乗せをケチれば相応の忠誠しか買えない。Google式囲い込みや終身雇用制度はそう作用するわけだね。
とまぁ、まとめてみるとこれも結局今更言うまでもない話か。最近のGoogle論や「若者が3年で辞める」論の中で言い尽くされて。
だからこれは、私が今日ようやくそれを実感しました、というだけのこと。経営的観点から、人件費の圧縮は大きなリスクになるということ。心しよう。
不調のせいで何をやってもあまり楽しくなかったり、集中力が続かない。短期記憶能力も落ちている。そのため、ある程度以上のまとまった文章は書けない。本は読めない。テレビも見られない。プログラミングは無理。でも、Tumblrならできることを発見。Reblogってこういうときには向いてるね。
そういうわけで、主として電波発言の集積所/惹かれた画像の集積所としてTumblrやってます。
RubyアソシエーションがRuby技術者認定試験を始めるということで、はてなブックマークでの反応は概して「はいはい、ワロスワロス。」
私としてはこれでNaClが儲かるならいいと思った。何しろコミュニティのサーバー置かせてくれたり、Matzをフルタイムで雇ったりしてくれてるんだから。RubyKaigi2007でもNaClは「コミュニティのために尽くすから、その代わり今後『Ruby認定試験』とか言い出しても大目に見てね」と言ってた。ま、認定試験なんつーのはエンタープライズの人がエンタープライズの人を喰い物にするためのもので、コミュニティとしては害はないよね。害がないなら、他のどの会社よりもNaCl(そうでなければ自社)に潤ってほしいと思うのは人情だろう。
と、思いつつ、記事を良く見た。Rubyアソシエーションの理事に名を連ねているのはMatzはじめ、NaClとか島根県とかの人たち。でも、「利益を出資者に配当しない」(Rubyアソシエーション)、かつ、「試験は伊藤忠テクノソリューションズ「CTC」に委託」(前掲記事)。NaClはどこで儲けるねや。
ここ1ヶ月ほど調子が悪い。抑鬱状態で、プログラミングしててもDVD見てても音楽聞いてても仕事しててもなにしても楽しくなくて、なにより集中力が続かない。力が入らなくて、何もする気力がなくて、床に倒れ込んだり。食欲不振と偏食。急にそわそわして(不安症状ってやつね) 、あるいは急に動悸に襲われて動けなくなったり。強迫観念を制御できずに行動を大きく縛られたり。
こうなる前の数ヶ月は薬でずいぶんと落ち着いていたけれども、もうここ1ヶ月はダメダメだ。 引き金が引かれたその日は、のたうち回って苦しんだ。それから、塚田医師の診察を受けて薬を増やした。昼間の眠気の代償として一時は落ち着いた。調子の良い日は、まぁ、まずまず。けれども、やはりのたうち回るほど苦痛の酷い日、そして疲労して一日眠ってしまう日。何をしても落ち着かなくて楽しくなくて体もうまく動かずに天井を眺めている日。
この状態の引き金となったものは明らかで、性別違和感だ。私にとって、社会的関係性において私がどういった性別であるのかというのは確かに大きな問題だ。けれども、私の身体性感覚において私がどういった性別を自覚するのかと言う問題がより重要である。というのが、ま、私がMtF-TSを自称する根拠なわけだ。
だから、私は自己の身体感覚入力に一定のフィルタを掛けるように訓練している。そうでなければ一瞬一瞬が私にとっては「いっそ殺せ」と言いたいばかりの苦痛だからだ。けれども、このフィルタを突き抜けてやってくる感覚入力がときたまある。特に、夢の中で。一度そこに苦痛を感じてしまうとあとはポジティブフィードバックが働く。苦痛は、なぜ苦痛なのか、何が苦痛なのかというところに自然に意識を向けさせるからだ。
その日、夢を見た。私にとっては悪夢である。目覚めて、私は認識してはいけないものを認識した。私は意識ある限りの一瞬一瞬の身体感覚の全てが自己の人格を苛むという苦痛に晒されて、床でのたうち回った。苦痛は苦痛の源に意識を向ける。それが苦痛を増す。苦痛は「のたうち回る」「頭を打ち付ける」「自分の首を絞める」というような行動をもたらす。その行動は新たな感覚入力を生む。これが苦痛を増す。こうして、私は疲労で意識を失うまでこれを繰り返し、目覚めてはまた繰り返した。
こうした疲弊が抑鬱症状やら強迫観念やらの状態を悪くする。いつもこれの繰り返しである。そして、ただ死にたくなる。この苦痛から逃れられるならなんでも良い。実際のところ、塚田医師のところまで診察を受けに行くにあたって電車に飛び込まずにいるには苦労を要した。
塚田医師に相談した限りでは、いくつかのことを言われた。
ただね、SRSを希望するにしても(できるなら今すぐにでも希望するけれども)、倫理委員会の許可を得るためには、私がそのような重大かつ不可逆な決定をくだせるだけの、正常な精神状態にあることが必要なんだ。この抑鬱状態、薬に頼っている状態を直さないと倫理委員会の承認は降りない。原因を取り除くためには先に症状を根治しなければならないというジレンマ。どうすればいいんだろう。
そして、承認されたとして、その後の長い長い患者の待機列。それから、今、埼玉医科大学でのチームが機能停止中であるということ。
ただ、塚田医師のその話を聞く限りではなんとしてでも入院は避けるべきだよね。この上更に新たなジレンマを作ってどうする、という。入院が病状を悪化させるなら、うっかり入ったらそのまま出てこられないじゃないか。
死ねってことか。死ねってことか。
ま、そういうわけで、調子が良い日は仕事は少しはしてる。けれども、今週は結局何もしてない。夏休みと合わせて、結局今週は一度も出社してないな。これで解雇されないのは、まぁ、その辺お互い納得ずくで契約してるから、だと思うけど。まだ有休残ってるし。
でも、これがまた、私の自信をなくすのだよね。私だって自己管理はそれなりにやってるつもりだし、プライベートなことを仕事にそうそう引きずったりはしないさ。でも、性同一性障害という問題だけはとてつもなく重くて、ときどき管理を外れて私を襲う性別違和感、これがもたらす今回ののような問題は回避不能だ。回避するように努めてはいるけれども、一定の確率でやってくるものだ。そのとき、私の生産性は劇的に落ちる。ま、落ちたってその辺の生半可な人よりはよっぽど役に立つ自信はあるけどさ。でも、やはり労働市場において大きなハンディキャップだ。ま、だからこそ「その瑕疵に目をつぶれば、優秀なプログラマの高い生産性が割安で買えますよ」っていう売り方をしてるけれどもね。
とかまぁ、そういう酷い状況下でも人間何とか生きているということを証するっていうのは私の掲げる究極的な目標に合致するものであるから、もうしばらくはのたうち回ってみるさ。死にたい。
こういう部分を抽象化できるライブラリやパターンがあれば良いんだけど
私もFlex2でのアーキテクチャに悩んでるわけですが。まぁ、GUIの汎用アーキテクチャパターンを利用しない手はないわけで、Flex2の表示リストモデル/イベントバブリングとPAC(Presentation Control Abstraction)パターンは相性がよさそうなので、今試してます。結論が出たらまた何か書きます。
少なくともPACでいうAgentの開放/閉鎖は意識したほうがよさそうで、それだけでもイベントでワケワカになるのはかなり解消できます。例外翻訳同様に、多分イベント翻訳が必要です。Commandパターンも使いたいので、必要に応じてCommandオブジェクトへの変換もしてます。で、イベントの変換やstopPropagation()を多用してると、それは自然にChain of Responsibilityになってくる、と。今のところ分かってるのはここまで。
PACについては次の本が参考になるでしょう。
Akakasa.rbに行ってきた。
これは何なんだ? 赤坂、溜池山王、六本木近辺のRubyを中心としたオープンソース系プログラマの集い、か。
こんな出席者で騒いだ。ザーサイ美味しい。
Twitter発だけあってtwitterっぽいオフだった。みんな主義主張が濃い上にお酒も入って、お互いに相手の話を聞いてるんだけど、微妙にかみ合っていないまるでtwitterな会話。それでも意思疎通が成立するのが面白い。
ma.laらんは今までオンラインの発言だけ見ていて、「web/開発を通じて目指すべきユートピア像についてこの人とは絶対に意見が合わない」と感じていたので是非一度お会いしたいと思っていた。で、Livedoor Readerの話とかその先の話とか色々聞いた限りでは、「通じ合うものを見つける」というもの凄くベーシックな次元では目指す方向性が合いそうだったので楽しかった。
lurkerさんもはじめましてだな。いつもzshではお世話になってます。
describe, it, class, defのカップリングとか言い出して、みなさんすみませんでした。
私にとっての理想の私は常に、マッドなアプリケーション(今はon the web)プログラマさっ。小さい頃はマッドサイエンティストになりたかったけど、今は研究よりはサービスの提供を通じて世の中に貢献(狂わせるとも言う)したい。
性同一性障害者を挑戦者として捉える考え方がある。性別境界あるいは男女の隔たりを越境しようとする果敢な(あるいは不届きな)挑戦者であると。外形的な振る舞いの側面に着目すればそれは正しい。性別再適合手術に代表される医療的処置に関して言うならば、性同一性障害当事者よりはむしろ医療関係者こそが挑戦者であろう。
そしてまた別の意味では、挑戦者として捉えることは決定的に間違っている。性同一性障害者は男女の隔たりに対する敗北者である。
中核群の性同一性障害者の生活史を改めて考えてみよう。彼らは物心つくころには既に性別に違和感を感じている。その違和感を周囲に訴えるが、抑圧されるか、少なくとも深刻には取り扱われない。彼らは、自己の内面にあるその部分を表出することは社会適応に差し障ると学習する。そして、自己を矯正しようとする。身体的性別に合わせて典型的な振る舞い、立場、思考を身につけようと何度も試みる。そして、「このような"実験"をよく行うが、必ず失敗に終わる」(『性同一性障害の基礎と臨床』p.100)。
性同一性障害者に対する批判の1つの典型として、「自己を社会に適合させることを怠って社会に配慮を求めるのは傲慢でないか」というものがある。いや、実際には怠っていなくて、挑戦して失敗しているのだけれともね。このような批判が出てくる背景には、身体的な性別に合わせた振る舞い、立場、思考を身につけるのは逆よりも本質的に容易であるという発想があるのではないかと思われる。そして、批判者たちが拠っているその発想を、恐らくは性同一性障害者自身も共有している。故にこそ、無益な「適応実験」を行って自他を傷つけるのである。
私の話をしよう。私もこの「実験」を何度も試みた。私はことあるごとに自己の"男性性"を強調しようとしたし、そうであると自分に言い聞かせた。その実験の過程で揺れる私の言動は奇矯であったろう。それに、これは社会的関係性に関する実験であって、自己に閉じているものではない。それに巻き込んで迷惑を掛けた人も随分いた。けれども、男女の文化的な違いのあまりの大きさに、結局私が「男性側に向かって越境する」ことは不可能であった。
そして、そうしたあがきの一方で私は性差廃絶主義者であった。身体的差異を除いて男女に何らの違いはなく、あるべきでなく、身体的差異が本質的な意味を持つような特殊な局面以外においては社会において男女に区別があるべきでないと考えていた。これは自己の男性性を強調する振る舞いとは矛盾するものであるが、気づいていなかった。要するに私は、自分が性同一性障害者であるということから目をそらしたまま社会適応できれば何でも良かったのであり、そのためには自分が男性的であるのでも、社会において性差が根絶されるのでもどちらでも良かった。ま、こちらの試みも成功するわけもなかったのだが。
ともあれ、身体的性別に適合するようなパターンを身につけるためにそういう有害無益ではた迷惑な「実験」を試み、そして、男女の文化的/精神的な隔たりの大きさに遮られて失敗する。そうして失敗した敗北者が性同一性障害者なのである。性差本質主義的な、「社会における性差は自然の産物であり、ジェンダーフリーとかいうのはまやかしだ」という性規範に保守的な人が性同一性障害者を持ち上げるのはこの敗北者としての側面を見てのことだろう。実際私は性同一性障害という問題を否定するために性差廃絶主義に走っていたのであるから、逆を考えれば彼らの戦略は間違っていない。
まぁ、そういうわけで、性同一性障害者を挑戦者として捉えるのも一理あるけれども、敗北者と捉えることも忘れて欲しくない。敗北者としての側面は政治的立場に応じて「男女の本質的な差異の大きさを証しする者」とも「構築された差異に拘泥し、抑圧構造の強化に荷担する者」とも解釈されるであろうけれども、ともあれ、その側面があることだけはきちんと考えて欲しい。