2007年10月


目次


2007年10月31日

PICSY、ニコニコ経済、ハッカー経済と呼ばれる何かのものたちについての考察結果

朝食の時のディスカッションで、リンゴを食べながら母とPICSYについての思考実験をした。


利点

PICSY経済がもたらす恩恵は公式サイトの述べる通りであった。医師は入院を長引かせるよりは早く的確に病気を治した方が儲かるのでそうする。日本の精神医療で指摘される薬への依存も、薬よりも精神療法を施した方が儲かって、採算をとりやすいのでそうする。保険の点数とかもう関係ない。

教員は生徒の能力を伸ばせば後々その生徒の生涯の経済活動を通じて自分の資産が増える。要するに、その職業に本来求められている社会への貢献が経済的利益に繋がるので金銭的インセンティブが生まれる、ということだ。

はてなのボーナス制度で実験されているように、ピアレビューにより「みんなの成果を下支えした人」が正当な評価を受けて金銭的に報いられることも考えられる。


懸念

一方で、それでうまくいかないかも知れない側面。

教員は将来有望な生徒を奪い合うのでは?

→ 私学による青田刈りが懸念される。けれどもそれは今も変わらない。生徒の生活・社会活動・社会貢献能力の向上を目指すのが教員の使命である限り、より"伸ばしやすい"生徒は教員にとって魅力的な存在であり続ける。経営を考慮せねばならない私学においては特にそうである。

公立学校に関しては公立学校教員の給与水準を生徒の平均的能力に応じて定めればよいのではないか。PICSY的金銭価値観が流布した状態ではそれに対して異論は出ないのではないか?

福祉関係者の給与は?

障害者であって障害が進行していく場合、その人への貢献は「資産を減らすおそれの大きい投資」にならないか?

→ 快楽の享受が経済活動を伴うという古典的な立場に基づけば、非福祉者の幸福が維持される限りにおいてそのおそれはないと言える。ただし、他者に(わずかでも)直接に何か経済的価値をもたらすことが難しい障害がある場合には、その人の幸福の維持には依然として公からの補助が必要となるであろう。

もしPICSY経済の中で仮に、財の生成効率が障害者において健常者よりも低いということがあったとしよう(この仮定を支持する根拠はないが、否定する根拠もない)。その場合にはやはり額面レベルで福祉労働者の給与を底上げしないとインセンティブは生まれないだろう。

また、活発な経済活動を生じない精神的幸福の可能性についてはわからない。PICSY的経済感覚が行き渡った暁には精神的幸福にもまた経済活動が寄ってくるのか、それとも、この分野では経済的解決は難しいのか。

ピアレビューの負の側面

示し合わせて(あるいは圧力により)特定の者の評価を下げようとする「いじめの構造」が発生しないか?

→ そのような示し合わせを先導しようとしたり、協力しようとしたりするのは自己の評価が下がりかねない危険な賭なので、合理的な選択としてそれはありえないのではないか。ただし、復讐感情などによる自滅的攻撃に関しては否定できない。それでも、利益がないので同調者は現れにくいのではないか。

また、権力・権威が圧力を掛けて同調を強いる可能性について。PICSY経済においても富が権力の源として機能し得るなら(Hacker社会を見るには機能するだろう)、特定対象を選択的に攻撃して自己を相対的に高めようとする戦略は富の集積に不利益となるのでそのような権力者の発生は抑制されるのではないか。

現状の社会において一挙に通貨をPICSY化したとすれば、社会構成員の価値観がそれについていかないと考えられる。従って、もしそのような暴挙をしたとすれば†1「示し合わせ」「圧力」の発生は不可避と考えられる。

このようにPICSY的発想とSECSY†2的発想の間にはギャップがあり、このギャップはPICSYからSECSYへの逆行についても作用するのではないか。誰かをおとしめて自分が利益を得るという発想が、それに失敗する経験を通じて衰退していくのではないか。(Hacker社会)

Hacker社会とスーツ社会

mala vs ameblo問題というのがあった。

情報が分散してるな。どっかにまとめはないものか。とりあえず、

要するに、ギーク的な「正しい情報提供は善。酷い行いば酷く罵倒されて当然。罵られた方も間違いを認めて改善すればそれ以上気にする必要はない。改善してもまだ責めるような輩はおかしい。連帯責任なにそれ美味しいの?」という価値観と、スーツを着た人の「物には言い方、人には立場というものがある。内容の評価はそれから。訂正すればよいというものではない。良識を侵犯した輩には子々孫々、一族郎党、所属組織に至るまであまねく祟られる」という価値観の対立だな。と、まとめるとなんか「モヒカン族」みたいでこれは偏った見方かもしれないけど。

この手の揉め事をみると、私は「ギークはスーツに口出さないんだから、スーツもギークに口出すなよ」「お互いのやり方があるんだからそれを尊重して仲良くしよう」と思うんだが。

ただ、上記のPICSYへの懸念と、ギーク的な価値観、社会こそがその懸念を解消する可能性を持っていることを考えたとき、「もうね、スーツは引っ込んでろ」と思った。PICSYは一番最初に挙げたように社会を改善する大きな可能性を持っている。その欠点は、社会がPICSY的になりギークの発想をするようになればかなり補える。Hacker社会の名誉に関する経済構造†3ではそれが実現されている。この構造を一般に浸透させるにあたってはスーツ的価値観とは相容れないから、引っ込んでろ、と。

ただ、やりかたとしてはゆっくり進めるべきだよね。PICSYも「一般的な通貨システムとして実現されるまでには数百年掛かるだろう」という話だし。それに共産主義という幻想が崩壊した教訓を活かすなら、本当にゆっくりと、小規模な実証実験を繰り返して自然に浸透するのを待つべきだよね。

あれ? やっぱりスーツとも「尊重して、仲良くしよう」でいいんじゃないか。

関連記事




2007年10月25日

はてな経済圏について再び

はてなダイアリー始めてみましたより、

今日初めてはてな村に来たのですが、みんなたかだか数十ポイント払うだけで親切に質問に答えてくれるし、とってもいい村ですね。

うん、はてなポイントは安い。

今「円 - はてなポイント相場」は異常なはてな安で固定されてる。だから、ポイントを買い溜めておけば、各種のポイント経済が発展してポイント間交換によって実質「はてな→円」の相場が自由化したときに大儲けの予感。そのときがもし来たら、ね。

まずは、円本位制感覚がもっと薄れていくと面白いことになると思ってる。


2007年10月21日

妄想報告

明晰夢の中、全く別の夢を見ながらのメタ思考の中でそれは起こった。

メタ思考のレベルで東ローマ帝国末期の皇帝であったという記憶を元に思考しているということに気がついた。メタメタ思考は「何この妄想」とつっこみを入れて、そんな妄想を持っていることに激しく焦った。

目が覚めてみれば、明晰夢のメタ思考と思っていたものも含めて全部夢の中の脈絡のない思考と偽の記憶だった。

夢の中であれば斯くも容易に現実認識はとろけて崩れ、妄想に支配されるのだなぁ。たぶん、このまっすぐ先に狂気がある。

いや、愉快愉快。


2007年10月04日

シギサワカヤ

なんか、最近読書感想ばっかり書いてるね。

シギサワカヤの『九月病』を読んだ。なんか、この人の絵に見覚えがあるなーと思ったら、『箱舟の行方』の人だ。 『箱舟の行方』は、なんだか惹かれるものを感じたのだけれども、でも表紙がどうにもヤバげなレディコミ風にも見えて遠慮していたのだった。

ところが『九月病』を読むと、私の直感こそが正しくて『箱舟』表紙から受けるイメージは間違っていたことが明らかになる。せつないよ。こういうの、好きだ。

『九月病』は連作短編集、『箱舟の行方』はバラバラの短編/超短編集という形態。で、どちらも不器用な恋愛を綴っている。ひたすらに。性愛描写はとても抑制されていて、スキンシップが目立つなぁ。そうと分かってれば『箱舟の行方』も即買いだったのに!

『九月病』の兄妹の関係は私の好みにど真ん中だ。別に兄萌え属性とかそういう自覚はないけれども、ただ、寂しくて他に誰にも頼れなくて近づいていく関係というのが好きだ。近代的個人としての全てをかなぐり捨てて大好きな人と破滅できたらそれはとてもとても幸せなことだと思う。

これを読んでいてもう1つ思い出すのは、昔感じた殺意だ。私は妬ましくて憎らしくて、憎悪のあまり思わず優しく微笑んで抱きしめずにはいられなかった。憎悪にせよ愛情にせよそれは(相手|相手の境遇)への執着に他ならず、そういう強い感情が訳が分からなくなるまでに私の中に湧き上がってきたということを、私はたまらなく幸せに感じたのだった。両作品には、特に『九月病』には人の中にある矛盾を顕在化させる強い感情がちりばめられている。だから、物語の筋がどうあれ、彼らは幸せなのだと思う。

破滅にせよ、強烈な感情の振幅にせよ、スキンシップにせよ、うーん。なんか最近は現実ではご無沙汰だなぁ。というかそういう状態に憧れはするけれども、私が他人に関心を持つことは少ないから、どうしても縁がないのだよね。キンゼイ・スケールでいうと1〜2だから0の人に比べると可能性は広い筈なんだけどなー。でも、さすがに恋愛がらみになると私のMtF-TSという状況は相手の中に内面化されたホモフォビアを刺激しかねないから、そのせいで臆病にもなるしなー。大切な人に髪をなでられたり、抱っこされたり、背中合わせにくっついて無言を共有したり、それはとても気持ちが良いことで、好きなんだけど。うーん、ここしばらく縁がないよね。

こうした私の思いは弱みでもある、と認識している。近代的個人たることの重荷、私のMtF-TSとしての重荷、その人のその人ならではの重荷、それをほんのひととき分かち合えるなら。少しだけでも孤立した人間の集合でなく、2人になれるなら、私は相手のためになんでもするだろう。そうだよ、プロフィールサイトで「好きな男性のタイプ: 駄目人間」「好きな女性のタイプ: 駄目人間」と書いたのは私だよ。えーい、こんちくしょう。私と適当にフォローしあえるような形で駄目な人と爛れた生活を送って堕落していったら、きっと私は愚痴愚痴言いながら幸せを感じるに違いないんだ。これは弱みに他ならない。

とか、そんなことを思い起こさずにはいられないような、強くて自立的で淋しくて不器用な人たちの恋愛譚がシギサワカヤの両作品なのであった。


2007年10月03日

待て、これはStallmanの罠だ

Windowsプログラミングの極意』を読んだ。既にあちこちで語られているように、これは「Windowsはなぜこうなっているのか」を語る本である。

Windowsのウィンドウメッセージの仕組みやダイアログ表示の仕組みなんかは、今まで理解が曖昧だった部分が分かって大変為になった。そして、私ゃ、GUIよりはCOMとShellを良く触ったので、その辺の話題はとても興味深かった。

でも、全体に分散配置されている愚痴についてはあまり共感できない。「いかにユーザーが/アプリケーション開発者が身勝手か」という愚痴。そのためにどれだけくだらない互換性レイヤーを書かなければならなかったか。

うんうん。その愚痴の1つ1つは確実に「何故windowsはこうでなければならなかったのか」を説明するもので、著者の個人的な愚痴ではない。でも、私の感想はこうだ。「プロプライエタリの中の人は大変だな」

著者が言う問題は、今の視点からみれば全部「ソフトウェアが自由であれば起こらないこと」である。

過去に対してこの感想を適用するのは不当ではある。Windowsをプロプライエタリで開発して、Microsoftが成長して、世界のデスクトップOSが統一されなければ、現在はまったく違ったものになったろう。プロプライエタリでなければWindowsはここまで成長せず、PCはここまで普及せず、インターネット時代も違った様相を呈しただろう。

でも、その時代は終わった。今Windowsが無くなってもインターネット化への流れは止まらない。もうWindowsの役目は終わった。Ubuntuもあるし、Macも昔の爆弾が良く出るやつじゃなくて本物のUNIXになったし、より良い代替はある。あとはSurfaceだけリリースしたら解散していいよ。←いや、私は普段はこんな無茶を言ったりしないのだけれども、それを言わせたのは本書だ。

私はStallmanの主張に賛同しかねる部分もあるものの、本書を読んでいると何となくStallmanが正しい気がしてくる。「ふーん、ソースコードを公開すればいいのに」「ふーん。GPLなら平気だろうに」「ふーんLinuxなら擁護されるだろうに」と。

これをWindowsの人の本として読むのは間違いだ。多分、著者はStallmanの毒電波を受信してこの本を書かされたのだと思う。これは世界をGPLで染め上げようとする罠だ。


2007年10月01日

大日本天狗党絵詞

大日本天狗党絵詞』は、その物語自体がなんとも天狗のように掴み所のない、分かったような分からないような、と感じていた。

けれども、突然得心がいった。これってHackerのことじゃないか。

三界に家を持たず、人と交わっては数多の不可思議な術で惑わせ、人の目を離れては惨めにさすらう。

寄るべき所を欲せばそれは既に天狗でなく、それを天狗と呼ぶ人がいなければ天狗でなく。

人が切り開く山々は元来天狗のもの。人が認識するこの世とは天狗もまた棲まうもの。けれども、そこにもう天狗の伝説を聞くことはない。

なんだ、Hackerじゃないか。物語の終わりは酷く荒れ果てた場面となる。けれども、天狗が人のような安寧を求めなければ、あるいは人が世の中には天狗という不思議もまたあるのだと忘れず山を侵さないでいればこういうことはなかったのだ。

それでも時代は移り変わり、起こるべき終局は起こり、最後には奇妙な希望だけが残る。

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