平原綾香の「ジュピター」を有線放送で聞いたときにまず思ったのは、「遺族はどう言ってるんだ?」。紅白で聞いて改めて思った。
ホルストといえば、遺言で編曲や演奏方法についてまで注文を付けて、遺族がそれを遵守して口うるさかった、というのが有名だ。「木星」も「火星」も「土星」も小さいころから好きなんだけど、遺言どおりにやるとコストがかかりすぎるのであまり演奏されないと聞いたときはちょっとがっかりしたものだ。「著作権切れたんだろうか」と思って調べたら1994年で日本での著作権は切れていた。
ま、これが著作権の本義だよね。一定期間の独占を認めることで創作を奨励し、その後はパブリックドメインと言う人類の共通資産になる。その土壌が新たな創作を促す、と。
さて。ホルストには死後60年経ってもまだ支持される価値があったわけだが。で、昨今の「消費されるコンテンツ」には同じだけの価値があるのか? 10年も「懐メロ」としてでなく価値があるのか? そもそも「懐メロ」としてすら残り得るのか。その辺を考えると私はその作品を社会が最大限に活かすためにはやはり収益を権利者に還元する方法を模索しつつも、基本的に派生を自由化することが必要と思うわけだ。それが結果的に作品の延命にもつながるだろう。レコード会社なんかにはそういう歩み寄りの気持ちはないみたいね。レコード会社のような自称「権利者」(≠創作者)としても消費者の姿勢は歩み寄りに欠けると見えるみたい。ニコニコ動画で模索されているライセンス形態やなんか、興味深いと思うんだけどな。
まあ、根本的な立場の違いだからしかたがない。「著作権の本来の意義からしてこうあるべきだ」という主張と「現行著作権法制の下で得てきた利益を逃さないためにはこうあってほしい」という主張なんだもの。
そろそろ、著作権は終わったほうがいいよ。派生は自由に。実演は自由に。利益は、権利者の存命中は還元を。権利者の死後はパブリックドメイン。絶版本も、権利者に利益還元だけすれば好きに再発行できるように。情報を止めず派生を止めないことが何よりも大切だ。芸術じゃない、情報だ。
それでいいじゃないかと私は思っている。全部ぶち壊した上で現代のソフトウェア技術の力で権利関係をトレースする仕組みを打ち立てればいいじゃない。
「神は細部に宿り給う」の「ガイア教の天使クジラ」シリーズを楽しみに読んでいる。捕鯨問題とそれによる日本叩き、その深層にあるのはキリスト教+人種主義が衰退したなれの果てである「ガイア教」の存在がある、という主張がキーだ。
そして、考えていてふと思った。メリケンが「Unicodeで統一だhehehe」とか平気でアホなことを言えるのは、もしかして私が「クジラは神聖な動物だ」という主張を理解しがたいのと同じ構造なんじゃないか。それが宗教的な世界認識と魂の安息に関わる思想史を背負った問題であって、にも関わらず当事者が敢えてそれを「宗教だ」と言うことが少ないので、「宗教」という枠を嵌めれば認識可能な問題を認識できずにいるのではないか。ガイア教徒にとってのクジラの神聖性を理解できないように、彼らにとっては「渡邉でも渡邊でもいいじゃないか」と理解不能なのでは? 言霊、文字による実体の支配、線の1本、留め撥ねの1つに懸ける想い。
いや、正直、文字コードの問題にどっぷり浸ってる人の主張は私にも今ひとつ分からなかったりするけど。
Ruby:r14162 (trunk): * parse.y (expr): redefinable not (!) operator.
これははっきり言ってギャッと言いたいけど、RSpec使いとしてはまつもとさんの意見も分からなくはない。何にしても、もうリリースされちゃったしね。
そういうわけで、再定義可能な演算子が増えました。これでハムレットも悩まなくて済みますね。
class Object
def !
nil
end
end
p !false #=> nil
p !!false #=> nil
p (!false).equal?(!!false) #=> true
@ITにまつもとさんとささださんの記事が載ってる。Ruby 1.9についてだそうだ。
まつもと いえいえ、逆にこれをちゃんと伝えていただきたいんです。1.9は安定版じゃなくて開発版です。“ブリーディング・エッジ”(Bleeding Edge)といって血がどばどば出ている状態のものです。そのために1.8系を用意しているということです。1.9の荒削りな部分が丸くなるには年単位で時間がかかると思うんです。そのときまでは1.8が運用されていると思います。もし何かの事情で1.9をエンタープライズで使いたいということであれば、自己責任でやっていただくしかない。
――でも、あまりエッジなことをやっていると、1.8系と互換性のあるJRubyがマスマーケットを獲って、Ruby 1.9とかい離していく可能性もあるんじゃないですか。
まつもと ええ、Ruby 2.0が1.x系をサポートするJRubyと別物になる可能性はありますよね。
ん、1.9は「2.0に向けての実験」ではある。でもさー、でもさー、ただtrunkで開発してるものを1.9と称するのではなくて、今回みたいにリリースを重ねていくというのは「2.0への踏み台」でもあるからなんじゃないの?
今回のRubyGems標準添付とか、ブロックパラメータの仕様変更とか、多値の扱いとか、M17Nとか、全般的に言語仕様としてとても良いものだったと思うんだよね。まさに、2.0に向けて進むべき道というか。まあ、まつもとさんを中心にみんなが何年も話し合ってきた成果なわけだから。
gemsの添付はJRubyはCRubyにさきがけて実践してるぐらいだし。パッケージングシステムが付いてるのは現代の言語としては当然でしょ? 文法非互換性も、1.8に対する非互換性ではあっても、結局は言語全体を一貫したルールで支配して、覚えることがより少なくてすむ、直感に沿った文法を実現する前向きな変更だ。
今回のリリース祭りの顛末からして、確かに現段階で1.9をエンタープライズに使うのはリスキーだ。というか、選択肢としてあり得ない。でも、もう少し経って安定した頃には、みんなが1.9の優れた文法を享受する機会を得られたら嬉しいと思う。せめて今のv1_8ブランチぐらいには安心して使える安定した1.9feature実装が欲しい。
や、事情は分かってる。「Ruby 2.0」は「Perl 6」やかつての「Python 3000」と同じ、見果てぬ「洗練されたRuby」の象徴的な名前なんだよね。そして、バージョン番号はmajor, minor, teeny、各1桁(だから辞書式に比較できる)という前提でずっとやってきたので、Ruby 1.10というのも難しい。
かといって、それが「1.9」である限り安定することはできない。今の1.8のように「大きく互換性を損ねる変更は禁止」になったら実験性が失われて、Rubyは進化を止めてしまうから。そうしたら2.0は永遠に失われて、Rubyは死んでしまうから。
でもそこをなんとかならんだろうか。今回リリースされた新版リファレンスマニュアル、以前RUBY_VERSION定数の項にはこう書いてあった。
Ruby 1.8 までは、minor が奇数のバージョンは開発版、minor が偶数のバージョンは安定版です。
RUby 1.9.0 以降は、teeny が 0 のバージョンが開発版となる予定です。
じゃあ、teenyが0じゃないやつは? 準安定版とか、次期安定版お試し用とか、それぐらいにならんものか。
これから1.9系統に盛り込まれるであろう実験的機能は分からない。でも、今回1.9.0リリースに盛り込まれた機能はRubyist全員がいつかは使うべき良いものだ。Javaならここで5までバージョンを上げる。まさにTigerに匹敵する大きな一歩だ。これを「リスクを取りたくないなら2.0までおあずけ」はひどいだろう。JRubyにしても、私はこの機能を無視し続けるとは思わない。JVM上で実装し得ないYARV specificなものはともかく、それ以外はいつか手を出すだろう。この機能たちを無視するなら、JRubyはたとえビジネス的に一時盛り上がったとしてもただの負け犬だ。
実験の足を引っ張らず、1.9の「角がとれた」部分を順次取り込んでリリースを重ねる方法を考えて欲しい。というか、ruby-devにも投稿したけど、事務作業ぐらいならできるし、何でも手伝うので何とかして欲しい。
Ruby 1.9.0がリリースされました。恒例のクリスマスリリースです。開発者のみなさん、お疲れ様でした。
予定では安定版1.9.1がリリースされる予定でしたが、どうも安定版と言うには不安が残るということでバージョン番号を1.9.0に変更してリリースされました。位置づけとしては「1.9系統の新機能を一通り実装し終わったスナップショット」に近い様子です。
「スナップショット」と言うとテストを通すべく、バグつぶしに尽力してくださった皆様に対してあまりにも失礼かもしれません。でも、「スナップショット」以上「開発的安定版」未満、という感じです。
1.8.0のときはPreview Releaseして、それでも文句が出たのに今回はPreview Releaseなし。しかもリリース予定時刻になってもコミットが続いているっていうのがすごいね。
個人的な勝手な予想としては6月のRubyKaigiの前後までには1.9.1がリリースされるんじゃないでしょうか。1.9.1こそは1.8に代わって「開発的安定版」になってくれることを祈ります。
何にしてもRuby 1.8.6は継続してセキュリティパッチ適用による保守が続けられます(卜部さんお疲れ様です)。じきに1.8.7も出るでしょうし、それまでは1.8.5もメンテナンスされる見込みです。
前安定版。開発・サポート終了
Railsの登場を支え花開いた現安定版
現在の1_8ブランチの成果。そのうちリリースされると思われる。1.8.6からは大きく互換性を崩さない程度の細かい修正が入っている。リリース後はメンテナンスフェーズに以降予定。
昔はRuby 2.0と呼ばれていた新機能のうち、いくつかを実装した系統。1.8とは文法レベルでの非互換性がいくらかある(ブロックパラメータなど)
Ruby 2.0の仕様が固まるまではあと20年掛かるという噂なので、当面は1.9系統で開発が続く。
とにかくリリースされた何か。RubyGemsの添付、評価器のYARV化、M17Nといった1.9系統の特徴は実現された。
まだ見ぬ何か
1.9.5くらいまでリリースされると、その頃までにはMulti-VMが実装されたり今の1.8系統ぐらいまで安定したりするのではないかと噂されている。
現在のところ、1.9系統そのもの。そのうち2.0に向けた開発が始まるかも知れない。つか、リリースブランチ切れよ。
Ruby 1.9.1がリリースされた訳ですが†1、何しろ評価器がYARV化されていてRHG当時の知識が通用しないので咄嗟にパッチを書けなくて大変悔しい思いをしました。
そういうわけで、RHGこと『Rubyソースコード完全解説』を片手に、その内容に沿いながら最新版のruby実装を読む集いを1月から都内で開催します。参加者募集です。
詳細は次のWikiページにて。
http://qwik.jp/rhg-strikes-back/FrontPage.html
ここしばらくの初音ミク登録問題については色々思った。
何にしてもドワンゴは脇が甘かったね、とか。 ドワンゴも本当にこの辺の問題を処理するためにひろゆきと組んでるんだろうに、とか。 溝口さんみたいなちゃんとした人がいる会社なのに何やってるんだか、とか。
でも、よく考えてみたらドワンゴは東証一部上場企業なんだな。それじゃあこういう不手際も仕方ないなと思った。この感想が我ながらちょっと面白かったので書き留めておきたくてこの記事を書いている。
ま、組織が大きい分の硬直化とか情報流通の問題とか、組織が大きい分だけ全員有能な人を配置はできないこととか、物を分かってない(分かる義理もない)投資家に納得して貰うために色々しなくてはならない点とか、色々理屈は付けられるだろう。といってもその理屈だけでは論拠として不完全なのだけれども。ただ、私の持っている偏見のセットからはごく自然に「大企業なら、いくら有能な人材がいても、馬鹿なことをするのは仕方がないな」という感想が出てきた。へー。
高橋会長のお話に一票。 業界のほうから書店の棚にフィードバックするのは有益かと思われる。
でも、出版社はともかく書店ってあちこちに散らばってるわけだし、どこから接点持てば良いんだ?
とりあえず、Book 1stの川越店は開店当時は良かったのにあるときから急に品ぞろいや並べ方がおかしくなったので、おそらく分かる人が異動したんだろうと想像してる。どうせ週1回以上は行ってるので手伝えることがあればなんか手伝うよ?
物理店舗に期待したいのはやっぱり品ぞろいの偏りなんだよね。店ごとに特色があって意外な本との出会いがあるから足を運ぶ。小さな書店が「品ぞろいの悪いジュンク堂」「遠くにあるAmazon」でしかないのなら、だったらその店じゃなくてジュンク堂やAmazonで買うよ。最近、小さいけど特色のあるという類の書店が減って、電車でふと途中下車して書店による楽しみが減っている。雑誌類や流行物は売れ筋をそろえてもいいというか、それが当然なんだろうけどさ、専門書でそれをやったらね。無難な手は最悪の手だよね。
何かを生み出さずにいられるということを理解できない。私は大抵のアカデミックなものには興味があるのでもっと勉強したいけど、そのすべてに手を出していたら時分割のスイッチングコストだけで終わってしまう。だから、面白そうなものの大部分を諦めている。永遠に時間があったらよいのに。
永遠に時間があったら結局何もしないだろう、といって限りある時間を賞賛する声がある。しかし、私はその声を信頼しない。限りがあるから頑張るという心理は締め切りに追われている身として痛感するけれども、それだけが人間を駆り立てるのではない。内発的な創らずにはいられないという気持ちがどうしようもなく高まるときもある。永遠に時間があるならば創造への欲求が散発的であることはそれほど問題ではない。そもそも永遠に時間があるのだ、創造への欲求を高める方法を探す時間は十分にある。
同様に生活上の必要に駆られなければ人々は怠惰になるだろうという意見がある。現実の事例を見るにそうなのかもしれないけれども、私には理解しがたい。どうして生み出さずに生きていけるんだろう。
孫引きで恐縮だけれども、pal-9999さんの記事にマイク・タイソンのこんなコメントの引用があった。
「福祉ってのは最悪だな。クラックより酷い中毒になっちまう。頼っちまうんだ。ただで何かを貰うのがどれだけ楽か、分かるか?何もせずにただベッドに寝て、色んな男とヤりまくって、子供をゴロゴロ作ってればそれだけで福祉の金が入ってくるんだ。そんなことをしてれば、すぐにモラルも倫理も仕事に対する価値観もなくしちまう。福祉ってのはそういうもんだよ。」
な、なんだってー。私もしばらくの間ネット見て買い物して本読んで寝てっていう生活してたけど、その果てに湧き上がってくるのは何でも良いから創りたいっていう欲望と、より多く深く知り考えたいという欲望だったよ。
根本的に、より多くを知りより多くを生み出せばより多くの楽しみ喜びを得ることができる。この喜びを手放せるほど私は禁欲的でない。ただ欲望のままに「汝の欲するところを為せ」とファラリス神も言ってる。
一体全体、どうして価値を創造せずに生きられるんだ? と、答えは同じpal-9999さんの記事に引用されているんだけどね。サルトルとヴォーボワールの事例だ。愛情だ。愛に満たされていれば何も産み出さなくても満足できる。依存して近代的個人としての何もかもを擲てば、その安逸の前には他の何も意味を持たない。これは理解できる。あー。創造せずに生きていけるひとがけまらしい。
そう言うわけで、メリークリスマス
昨日。鬱で身体が重くて朝から歩くのがしんどかったんだけど、いよいよまずそうなので薬を取りに立ったところで居間で倒れた。そのまま動けないでいたら噎せて喉を詰まらせた。
不随意運動はできるんだから、いよいよ危ないときは鬱でもとっさに動けるんじゃないかと思ってたんだけど、できないのね。そのまま姿勢も変えられずに、死ぬかと思った。たまたま居間に降りてきた家族に拾われて気道確保してもらったので、泡は吹きつつもまだ意識はあるうちに助かったけど。何しろ鬱がひどい状態での話なので希死念慮も結構強くて、反射で藻掻きはしても「ま、このままでいいか」と思ってしまうのが危ないやな。
実家住まいと言うと「一人暮らししないの?」と聞かれて、いろいろな理由はあるのでいろいろに答えるけれども最大の理由はこれだ。長時間1人で居るような環境で暮らしたら、倒れたときに命に関わる。
「中国語の部屋」ぐらいになるとその知性はどこに宿っているのか、システムなのか、中の人なのか、部屋なのかという議論が成り立つ。でも、「ルー語の部屋」があったとするとどうだろう。ルー語変換テープルを渡された中の人がそれに基づいてouterのquestionにanswerするroomがexistしたとすると、そのroomのintelligenceはsystemやroomそのものよりは中の人にdependしそうにfeeling。
そういう気がするけれども、それは多分錯覚で、ルー語の部屋にしても結局その知性はシステムにあるのかも知れないし、部屋全体にあるのかもしれない。「フィルターが掛かっているだけで、知性としてのルー語の部屋は中の人そのものなのだ」と決めつけてしまうのはルー語という強烈な個性を無視することであって妥当ではないのではないか。やっぱりフィルタによって変形した新しい知性が存在するようになって、それは中の人を含みながらもそのものではないのではないか。と、考えると何か中国語の部屋が分かりやすくなるかも。
先日の東京・関東Rubyist忘年会の席で、「UTF-8で日本語を記述したRspecをwindowsで動かすと文字化けして困る」という話があった。 で、「それcocotでできるよ」と言おうとしたのだけど暫く使ってなかったのでとっさに"cocot"の名前が出てこなかった。
cocotは「端末(tty)とプロセスの間に割り込んで、文字コード変換を行うツール」。だから、cocotの下でシェルを動かしてしまえばあとは意識せずにコード変換してくれる。 シェル丸ごとだと今度は標準コマンドの出力が化けるかも知れないけど、だったらalias spec="cocot -p UTF-8 spec"とかすればいい。
ここではあんまり書いてなかったけど、twitterなんかでは告知しているように、現在私はニートだ。一部では偽装疑惑も指摘されてるけど、自称はニート。季節柄、仕事の締め切りに四六時中追われていてもニート。書いていてなんだか無理がある気がしてきたけど。ニート、ということにしたい。
何があったかというと、勤務先が倒産した。まず最初にあったのは給与未払いで、その次に事業停止して、そして12月10日付けで全従業員を解雇。
そう言う訳なのであちこち手続きに行ってきた。
国民年金の手続きをした。これは地元の役所に行って住民課で。手続き自体は会社印の入った解雇通知書と、身分証明書とで簡単に話が進んだ。
問題は、事業停止日と書類上の解雇日の間に元の保険証で結構受診してるってことだ。健康保険が切れるのが事業停止日なのか解雇日なのか、会社側の弁護士でもはっきりしないらしい。なので、とりあえず事業停止日をもって国民健康保険に加入したという扱いにして、齟齬があればそこは払い戻して対応するということに。
それから、地元のハローワークに失業給付の相談に行った。と、問題は離職票を貰ってないということだ。解雇通知だけで離職票は会社から貰ってないよ。これがないとハローワーク側では対応できないので、とりあえず港区(会社が所在していた場所)のハローワークに相談してみるようにすすめられた。
港区のハローワークは品川にある。で相談してみたのだが、その辺の雇用保険の適用に係る話は「雇用保険適用課」だそうだ。で、その課は品川にはなくて六本木だそうだ。六本木に向かう。なんだ、会社の(あった)場所の無茶苦茶近くじゃんか。
ふんふん。こうして六本木の雇用保険適用課に相談してみたのだった。で、ハローワークとしてはどうしてもとなれば職権で離職票を出せなくはないけど、一応正規の手続きとしては会社を代理している弁護士から出してもらうべきらしい。なので、ハローワークから弁護士に離職票を出すように電話をかけてくれた。ところが、弁護士さんはなんか今、ここに書いて良いのかよく分からないとある理由により離職票をすぐには出せないとのこと。
ふーん。離職票って単に事務的に出すだけじゃなくて、倒産して話がこじれてるとなかなか面倒っぽい。一応、現況を示す証拠として雇用契約書、雇用保険被保険者証、解雇通知書などのコピーを取ってハローワークに渡した。あとは給与明細もあった方がよいらしいのだけど、これはうっかり持って行かなかったのであとで送る。何にしても離職票発行まではまだしばらくかかりそうだ。
で、とりあえずは今日の話をまとめた「被保険者でなくなったことの確認請求書」を出して、そのコピーを貰った。コピーを持って地元のハローワークに失業給付の仮受付を頼むと良いらしい。このままだと、給付対象となる期間は離職票が出てそれを持って申請しに行ったときから起算されてしまう。給付の終了は1年後に固定されているので、離職票発行に時間が掛かる場合はその起算は嬉しくない。なので、とりあえず仮受付だけでもすればその日から起算される、らしい。
なんというか面倒くさいね。知人が面倒さに怒っていたのも分からないではない。私がプロセスにおける無駄な手続きを嫌うって知ってる人たちは、ひょっとしたら何故私も怒らないのかといぶかるかもしれない。でも、面倒だけど楽しいのだ。私は未知の組織の中で手続きに翻弄されてはいずり回るのが好きだ。そうすることでそのシステムの力学を体験できるし、システムを把握するにはとても良い教材なのだ。もっとも、そうしてシステムの仕組みを把握するに至ったら一転して「ここが非効率だからこう改善せよ」とかお馴染みのように口を出し始めるのだけどね。
いや、だってね、昨日の記事との絡みで言えば、「大きなシステムには相応の構造が必要で、その構造は必然的にシステムを重くする」って私は知ってるんだもの。一見重くてもそれは大きなシステムにとっては最大限に円滑なのであって、そこから更に効率を高めるっていうのはなかなか容易でない。†1
小さなシステムはそんな鈍重な機構がなくても回るのを体験して知ってる。それと同様に、大きなシステムを部分だけ見て局所最適化しようとするとどういう悲劇が起きるのか、私は自分の失敗体験をもって知ってる。だからね、私は最適化を求める前にシステムの全体像を把握しようとする。ま、さすがに労働法制実務のシステムは、今回割りあてるリソースだけでは把握し切るには至らないだろうけどね。
実際のところ、当面こまこまとした仕事を請けていく可能性もあるわけで失業給付の対象になるかどうか微妙だったりする。が、今回はたまたま縁があってこの辺の仕組みを勉強させてもらっている。気分としてはあれだな、昔、航空会社のシステムをやったときに国際航空運賃の算出法を勉強したのに近い。あれも楽しかった。
この世界には学ぶべき楽しいことがいっぱいだ。どこにいっても見慣れない仕組みで動いているシステムが必ずある。そしてシステムはシステム屋の分析を待っている。私はそういうシステムに触れるのが好きだ。
あー。あと、税務署にも相談に行かないといけないので、行ってきたらまた何か書く。
オフ会の連絡にメーリングリストは大げさで、しかもアクセス可能性がメールに限られる。じゃあtwitterつかえば良いんじゃないかと、昨日溝口さんと話した。
要は、IMからも携帯からも簡単にアクセスできて、雰囲気的にもうちょっとカジュアルに書き込めるツールのほうがオフ会のための連絡には向いているっていう話だ。
「【就職】スーパー大学生が就職活動や就職をするとこうなるのかな。」を読んだ。ま、こういう謙虚なのは好かれるし、それが大切であるという側面もあるよね。ただ、あまり自己を過小評価するのも良くないと思うので、昔の反省も込めて違うことを書く。
要は、他の同年代に比べて様々な活躍をしている「スーパー大学生」の能力は社会に出てどの程度通用するか、というのが本質的なところの話題だと認識している。(上の記事「……こうなるのかな」では「就職活動でどう評価されるのか」という違う側面からも評価を試みているけれども)
「……こうなるのかな」では
と書いている。
うーん、大学生だか何だか知らないけど経験は経験である。社会人でも大して学んでない人もいるし、学生時代何かやったからってそこからどの程度学ぶかはまちまちで、学生とか社会人とか関係ないでしょ。
まー、私も大学院中退に至るまでに色々やったよな。色々やったけど、でも初めて会社の面接を受けに行くときには「所詮私の経験は職業としての経験ではないのであって大したものではない」と思っていた。でも、これはある意味で正しくて同時にある意味で間違っていたと思う。
正しかったというのはつまり、そこで自分の経歴を過大評価して吹聴するようなやり方は日本ではあまり好かれないのであるということ。自分の経験を謙虚に捉えたほうが面接なり職場での人間関係の構築なりには有意義な側面はある。少なくとも元記事が指摘する「武勇伝語り」は致命的なミスというか、それをやっちゃう人は結局「いろいろな人とほどほどに付き合う」というスキルには欠けるよね、と。ま、採用側のあるべき姿勢としては1つのスキルが欠けてても他のスキルがあればいいんだけどさ、でも、受験側としてはわざわざ自分のスキルの1つを低く見せる理由はない。
で、間違っていたというのは「確かにお金を貰って仕事して初めてできる経験もあるけど、でも学生時代に学べることを学んできてない社会人いっぱいいるよ」ということ。同僚や先輩や上司にその手の「学んでない」人がいるなら、もしそれを自分の経験でサポートできる可能性があるなら、そこでは自己を過小評価せずに自分の能力を組織のために活かすべきだ。
私は自分の過去の経験を活かせなかったことを後悔している。こんなことがあった。会社で組織に関する内部的な問題が起きて、私は似たような事例をいっぱい経験して失敗例と成功例を知っていて、経験に照らして上役が取ろうとしている戦略は間違っていると感じた。でも、「あー、あのときと同じだけど、でも社会経験豊富な人たちがこう言ってるんだし、会社ではそれでいいんだろうな。勉強になる」と思ってその流れを認めてしまったんだ。会社が小さいということもあって、私は流れを変えられる立場にあったのに。「年齢が30歳上でも駄目な人は駄目」!
最近でこそおとなしくもなったけど私は昔は声の大きいタイプだった。そのせいで小学校の学級委員に始まって、児童会三役をやって、生徒会三役をやって、何たら委員なんて言うのは山ほどやった。あれって、「○○長」は兼任してはいけないという規定はあったけど、「副○○長」は兼任OKだったから経験の浅い人を傀儡の長に付けておいて院政を敷くようなやり方で結構簡単に組織を牛耳れるんだよね。
部活では当然部長をやって。学校外でも、博物館の某会の委員やら同好会の運営局やら、地域自治会のイベント企画やら。年代の違う人と一緒に仕事する機会にも恵まれた。大学に入ったら学内最大のサークルと弱小サークルと兼部して、それからもう1つ別のサークルの立ち上げと崩壊に付き合った。ああ、あとサークルじゃないけど似たような組織で研究活動やら講演会やらを企画・実行したな。
まあ、やった人なら分かるだろうけど、お金を預かる緊張感や事務処理なんていうのは会社じゃなくても経験できる。100万のオーダーでも学生にとっては大金だし†1、イベントを主催したときにはそれで外部の人とのお金のやりとりを沢山やって十分緊張感を体験できた。
その他細々と、イベントやるのにお役所と話し合ったり、飛び込みで企画への協力を持ちかけたり。対談したり"外交儀礼"したり。
……というのを「武勇伝」というんだな。これを自慢たらしく語ったらまあ、そりゃマイナスにもなり得るだろう。
それはさておき、これで私が知ったのは「何でもやってみれば結構実現できる」「どうしようもなく無能な人がいる」「大きな組織と小さな組織は違う」というようなこと。そして、体験したのは
結果として数人規模から数万人規模までいろいろな規模の組織の運営に関われたのが大きかった。それぞれに意思伝達の適切なやり方は違う。失敗も大量にしたというか、どちらかと言えば失敗した場合のほうが多い。
私はとにかく色々兼任しまくったし、いろいろな立場から関わった。よく考えてみれば当たり前なんだけど、私みたいな良く出しゃばる人間がこういう座を占めていると言うことは、その座を経験できなかった人が沢山いるっていうことだ。社会の大部分はそういう人たちでできている。だから、みんな精々が部活と最初に入った会社と、その程度しか組織を知らなかったりする。年数が長くてもバリエーションが絶対的に足りてないよ、それ。
だから、私は叶うことなら昔の自分に言いたい。「いろいろ経験してない人は年数が長くても視野が狭いことがあるので、自分は年数が短くとも遠慮せずに経験を活かす努力をして、必要なら意見を戦わせてすりあわせて何かしようよ」と。「組織に馴染むまではほんの少しだけ謙虚でもいいけど、入ったらもっと組織の目的のためにしゃしゃり出ようよ。相手が正しいときは相手は私を合理的に説得してくれるから意見の表明を遠慮するな」と。
大学生だか何だか知らないけど経験は経験なので決して遠慮するな。摩擦を避けるための謙遜ならあってもいいだろう、冷静さのために心の中で一瞬控えめな評価を試みるのも良いだろう。それ以外は遠慮は無用。
「1度トップに立ってしまうとゼロからやり直すのは怖い」ってまだ甘いよ。もっと沢山の場を経験すれば、新しい場でゼロから始まるのなんか日常茶飯事でしょ?
中高で部活で部長なりキャプテンなりレギュラーなりやれば否応なく経験することじゃんか。ゼロから始めるのはそんな気負わなきゃならない怖いことではない。つまらない雑用もあるかも知れないけど、結局誰かがやらなきゃいけないことで他に適任がいないなら喜んで†2自分がやろうよ。
年末年始でオフ会やらカンファレンスやら飲み会やら勉強会やらが頻発する季節。何かと名刺が入り用になるので作ってみた。
今回は名刺ハウスのお世話になって作成した。やっぱりプロのデザイナーさんはさすがというか、できばえには満足。こちらの抽象的な要望にもかかわらず、注文して早々にデザインを3案出してくれて、いずれも選ぶのに迷う出来で。デザイン確定後も1日で印刷して確定の翌々日には品が届いた。
テンプレートに基づくセミカスタムとはいえ、デザイン料はこの値段で本当に良かったんだろうか。そもそも今回の私みたいに知識もなく、ベースになるデザインも持ってなくて、しかも比較的急ぐっていう場合には、フルカスタムよりはテンプレートでベースになるデザインを注文前に見比べられた方が嬉しいのだよね。テンプレートが豊富で良かった。
満足満足。
今、ご縁があってRubyの入門書を書かせていただいてる。そして、分かってはいたけど説明することは難しい。
そんな中、Dave Thomasのピッケル本第3版のベータが公開された。上手い。流れるように文が連なっていく。学習しようとしている読者の思考を妨げない。私の文はそれに比べるとたどたどしい。
こんなこともあった。私も最初章立てを、できるだけ類書を見ないように試行錯誤した。でも、書いてみると結局内容的にその章立ては不適切であることが判明した。その上で内容と文章を再配分してみると、どうやらピッケル本の構成に比較的近くなりそうだ。
達人プログラマーの実力を見せつけられた感じだけど、でも白旗は揚げない。これで挑戦する気持ちすらなくしたら完敗だもの。Dave Thomasよりも、少なくともこちらの本が想定する読者層†1にとっては分かりやすい、そんな本を書きたいと思う。
amachangが「話したい人のためのカンファレンス」をやるらしい。話したい。
「Java使いのための今どきのRubyの使い方」を。Rubyの浸食はいつものようにまず周辺領域から。世界征服はまず練馬から。そういうことを。
スパンアートギャラリーの「アリス幻想」を見てきた。
参加している作家の名前は豪華で、その期待に違わない作品たちだった。いまいちよく分からないのもあったけど。
あれだな、ナイジェル・ハリスの鏡像変換してる作品はその下に置いてあった文も良かったので、あれもパンフレットに載せて欲しかった。アリスと言ったときに作中のアリスとアリス・リデルのずれから二重写しが生ずる。展示全体にわたって作中のアリスを扱うものと、アリス・リデルを扱うものとがあった。鏡像変換はその双方を写し込んでそこに鏡の国を描いて見せているのが素敵だ。
会場でついでにトーキングヘッズ叢書の『幻想少女―わ・た・しの国のアリス』を買って、読みながら帰ってきたのだけど、案の定というか『ローゼンメイデン』を扱った書評があった。その書評が言うほどにあれが評価すべき作品かというと私は疑問だけれども、でも「アリスゲーム」という設定だけは確かに評価してもいい。ドジスンによって理想化された少女という存在にアリスという名前があって、一方にドジスンと語らった人間アリスがいる。アリスというのはありふれた名前だけれど、遍在する「過去・現在・未来の少女=魔女」と「少女という概念の究極」とが同じ名前を共有するのは極めて自然なことだ。だから、確かに少女性とは何であるかを考えるなら、一方の対極である群れなすものからもう一方にある理想のアリスへの遷移でなくてはならなくて、やっぱりこの両極のアリスをうまく活かした設定なんだな。ま、それで少女と人形の重ね合わせっていうのもまあ、書評の言うことは分かるしね。
遍在し偏在するものっていうのは魅力的だよね。
Easylifeさん主催の「Rubyクックブック読書会」に参加した。みんなでSkypeで音声をつなげて『Rubyクックブック』を読もうという企画である。
今回は日本語版第1章の日付と時刻のところを半分くらいまで読んで終わった。良い企画だと思う。みなさん、ありがとう。
「「茶パツ生徒」を担任が髪染めスプレーで黒く染め直す→生徒と保護者が人権救済申し立て@痛いニュース」を読んで背筋の凍るような恐ろしさを感じた。これが直感的な反応。
校則に違反して髪を茶色に染めた中学生がいて、教員が無理矢理その髪を黒く染め戻して、保護者が人権救済を申し立てた、という事件。あまりにも多くのレスが中学生と保護者を非難している。曰く、「ルールは守れ」「そんなのじゃ社会に出たら困るぞ」「権利という前に義務を果たせ」。
この中学生の行為が恥ずかしいというのはおそらく同意し得る。多分あとで思い出して本人が恥ずかしいと思うようなどうでもいい理由で染めたに違いない、と見聞きする事例に基づいて推測し得るからだ。保護者についてはこの行為が恥ずべきものなのか、よく分からない。そこまで大ごとにする前にもう少し賢いやりかたをやってみせたほうが生徒への教育になっただろうとは思う。
ただ、私は「痛いニュース」がまとめて見せた流れを恐ろしく思った。で、批判の文句をいくつも考えついたけど、どれも本質的な点を突いていないように思えた。私はなぜ恐ろしさを感じたのか。 そして、考え至った。「善悪を判断していないからだ」
なるほど、生徒の行為は恥ずかしかろう。保護者についても、彼らが言ってる意図は分かる。私も彼らと偏見を共有しているからだ。たぶん、自由とか人権とかそういうことについてちゃんと考えて言っている訳ではなくて単に「自分の好きなようにする権利」として人権を唱えているだけだろう。私も印象としてそう想像した。
で、だから何だ? 他者の身体を本人の意志に反して改変する行為は傷害である。そして、問題は善意に基づいて矯正するような行為を、法を犯す形で行っても良いか、というところである。勿論、法はそれを侵す者を許さない。善悪の判断を法にゆだねるならばそういうことだ。私は法が正義であるとは思わないが。
法よりも上位に法の根拠たるべき正義を求めるならば、生徒は愚かだが「自由とは、どんな愚かなことをすることも自由だということだ」。実際のところそれが愚かかどうかは視点によるのだし。私はこの立場だろうか。他人にできるのは、いたずらにルールに背くことの愚かさを説き続けるか、見放すか、それだけだ。
更に言うなら、愚かであることや、本人が上のようなことを考えていないであろうことは(もし、仮にそうであったとしても)その人の自由を奪ったり自己決定を蹂躙したりして良い理由にはならない。
そういう議論は盛り上がらずに、善悪の判断を現場を支配する下位のルールに委ねている。あるいは、「ルールを破るのは悪い」という判断だけを優先してルールへの批判的視点を維持しないなら、やはり同じことだ。こうして法の支配あるいは法のあるべき姿についての思考を放棄して、現場の実態を支持するありかたに私は恐怖を感じたのだ。「法に則っているか」「法は正しいか」という視点を放棄されたら私の生は否定される可能性があるから。
日本ではキリスト教的価値観が希薄なので性的少数者へのヘイトクライムの可能性は低いと言われてきた。でも、やはり私はヘイトクライムを恐れるべきかも知れない。
教員の対応が生徒の意志に反したものであったかという点について、教育委員会は「生徒の了解を得ており、体を押さえつけるなど強制的な行為はなかった。テストを受けさせるための措置だった」と述べている。この釈明は考慮するに値しないというのが私の判断で、上の論はすべてのこの判断に基づいている。が、この判断について説明しないのは論理の飛躍ではないかという批判をいただいた。確かにね。
これも私の偏見に基づく推測だ。組織を監督する立場からこの手の言い訳が出てくること自体は良くあることで、食品偽装を行った企業の言い訳と同様に私はあまり信用しない。
また、学校という閉じた世界における権力として、教員は「テストを受けさせない」という不利益またそこから派生する不利益をちらつかせて行為を強制することができる。本人が後から申し立てをしていることから考えて、このような圧力があったのではないかと推測する。なら、本件の問題は傷害から脅迫に移る。というか、書いていたらなんだかこちらの可能性のほうが高いような気がしてきた。ま、自己決定の蹂躙という本質的な問題には変わりない。
もし生徒がその時点では心から納得してのことであったなら、蹂躙も何もないわけで教員の行為は大した問題ではない。一方、生徒が何かとても深い事情によって髪を染めていたならそれを斟酌しなかった教員の行為はますますひどいものになる。保護者が私が上で論じたようなことを考えた末に申し立てに踏み切ったならそれは少しも「恥ずべき」ものではなく、保護者に教育を受けさせる義務がある以上はそれに抵触しない範囲でまあ正当な手続きであると言えよう。
私が「教員による圧力があったに違いない」とか「生徒はどうせどうでもいい恥ずかしい理由で髪を染めていたに違いない」とか「保護者は深く考えずに、自分の好きなようにさせろと吠えているだけ」とか考えているのは、いずれも見聞きした類似事例に基づいて一定の偏見を持っていて、それに基づいて推測しているに過ぎない。
ということは確かに明記しておくべきだった。thx < itkz
昨夜、眠りについてしばらくして、絶叫しながら跳び起きた。悪夢を見た。昔の夢だ。
昔、私が自己同一性を偽って、自分の性別違和を否定しながら生きようとしていた頃の夢。良いこともあったし、あの日々において出会って今も良い関係を築いている知人もいる。でも、あれは悪夢だった。
あなたは、例えばカルト教団の類が洗脳に使うような自尊心を破壊する罵倒を周囲から浴びせられながら、「私は何の価値もないゴミです。そうであることを嬉しく思います」とかそんな内容を心の底から喜びながら笑顔で語り続けることができるだろうか。できないとしたら、あなたは私の過ごした日々では生きていけない。でも、その必要に迫られれば人間、結構何でもできるもんだ。二重思考(double think)して、自分の周囲を支配するイデオロギーに適合する思考を自然にできるようになれば。
あの日々は私にとっては本当に、心の底から喜んで自己の同一性を否定しながら生きなければならない日々だった。誰にも本心を話さなかった。苦痛でしかない善意の行為に晒されながら本心から喜ばなければならない日々だった。これが20年続いた。
その中でも、少しでも楽な場所はないかと思って私は象牙の塔に籠もることを目指したのだったけど。でも、結局はこれ以上私が私を破壊し続けながら私が存続することは不可能だと思った。私よりは、壊れるべきは私を破壊しなければ存続できない暗黙の構造そのものであると思って、私はしぶしぶ自分が性別違和を持っていることを認めて塚田医師のところに行ったのであった。そうして、結果としては中核群の性同一性障害という診断を得た。
その後に起きたのは関係の再構築だ。私が自分で思っていたほどには私は自分の本心を周囲に隠し切れていなかったようだったけれど、でも、それでも私は二重思考の裏に隠れて振る舞っていたのであり、家族や、周囲の知人は私にとって親しい間柄でありながら「知人の知人」みたいなフィルターの掛かった存在でもあるという奇妙な関係であった。私は改めて、私の知人であった人々に出会い、ある人々とはうまくいかずに連絡を絶った。正直に言えば、私は関係再構築の中で傷つけられることを恐れてその時点で疎遠気味だった人々とはこちらから一方的に連絡を絶ってしまったのだが。でも、その時点で関係が濃厚だったあいてとの関係再構築はだいたいはうまくいった。話せば分かるものだし、それよりも何よりも、私が今の私であってそれ以外のいかなる同一性でもないということを日々の生活の中で実感として体験してもらうに如くものはない。日々の実感によって私は理解を得た。とても幸いなことだ。今も関係を続けている当時の知人にはいくら感謝しても足りない。
私が構築していた二重思考は消滅し、あの行動パターンはいなくなった。あの行動パターンは最後まで私が演じるキャラクターというか、周囲の人物から収集した「この体制下において適合しうる、比較的私に近い入出力変換フィルタ」に過ぎなかったけど。私の中にいたあれが自己認識を得ると言うことはあり得たんだろうか。人間の精神構造的に。ま、いいや、こうして私は解放された。
今さらあの二重思考の裏側に監禁される日々に戻ることは悪夢でしかない。でも、睡眠中には時折そんな夢をみる。昨夜はひどかった。起きると、その夢のせいで動悸は激しく、耳の中に悲鳴が響き続ける。夢の中の人々の声が胸に突き刺さって、死にたくて仕方がない。耳を塞いでのたうち回る。そうして、疲れてうとうとするとまた悪夢を見る。そんなことを18時間ほど繰り返して、遂に眠ることを諦めて起きた。幾らかは眠れたし。
今は薬で落ち着いた。私は、今の生活と今の目的という拠るべき所を見つけたので、今は過去の日々を幾らかは冷静に見ることができる。あの中にも良いことはあったし、今ならそれを懐かしく思い出すことができる。でも、それでも実際に戻るとしたらあの牢獄は地獄以外のなにものでもない。
そろそろ眠くなってきた。今夜も、眠らなければならないんだろうか。
yuguiさんとわたしとでは何かが違うんだよなあ。自分の能天気さが本当にありがたく思えるよ
それは私が最後まで、性同一性障害者に対して差別的だったからだろう。あるいはひょっとしたら今でも。
私は性同一性障害の中で生きていくことの不利益を思って、また周囲に見聞きした否定的言説にまきこまれて、「性同一性障害なんか」ではありたくなかった。自己の性別違和から目をそらそうとして、そこから徹底して逃げ、それを徹底して否定した。
今振り返るなら、性同一性障害であることそのものはそれほど不利ではない。私たちの世代は。だってもう、埼玉医大から10年経ってるんだ。当たり前じゃないか。もし不利益があるとしたら、私が陥っているような性別違和故の神経症状を抱えると不利だというぐらいのものだ。社会的に不当に扱われることはそうはないし、扱われたとして、然るべき筋に訴え出れば改善される見込みは高い。社会で不当に扱われることを恐れなくて良い。少なくとも、東京ではそうだ、と断言しよう。gid.jpでのシンポジウムでもね、みんな「職場でうまくいってるよ」と語っていたらしいし。
そして、周囲に見聞きした否定的言説についても今振り返るならそれを否定できる。私の周囲の人々は無意識に、深く考えることなく、ごくカジュアルに、性別越境について否定的な言をぽろりと漏らしたに過ぎない。しかし、それは彼らの無知と無自覚故なのだ。目の前に、生きた人間として越境者が立ち現れたとき、越境者がネタで越境しているのではなく本人にとっては深刻な問題なのだと言うことを目の当たりにしたとき、彼らは問題を考えざるを得なくなる。そして、否定すべき理由など何もないという事実に突き当たる。
そういうことに気づかないまま、私は自己を含むものを否定し、否定し、否定した。「自分自身を含む集団を差別する人間はいない」というのは確かナチス将校の言葉だったが、これは間違っている。それが正しいと教育され、それ以外の視点を与えられなければ、容易に自分自身を否定するような構造を積極的に支持するようになる。外部入力なしに自発的にその罠から逃れられるのは真に賢い人間だけだ。私はついに、有り余る情報を入力されて且つ矛盾から目をそらせなくなるぎりぎりまで、そこに囚われたままであった。その間、私自身が私の否定に荷担していた日々が、その年月を重く苦しいものとしている。そこから逃れた今にあって、その日々を肯定することを難しくしている。
私は愚かだった。だから、私は情報を発信するのだ。知る機会を提供するために。
今日の夕食ディスカッションの結果。今日は久々に家族全員揃ってたな。時節柄、社交的コミュニケーションが話題となった。
人間の知的活動リソースを有効に活用するためには、機械化できることは機械化することが必要である。
しかし活動の効率化は徹底されない。コミュニケーションにおいては「あなたのためにこれだけのリソースを費やした。あなたは特別である」というメッセージの交換が行われていて、この交換は性質上、単純な効率化の対象にはならないからである。たとえば、「紙の年賀状に手書きでメッセージを記すこと」
そこで、このコミュニケーションを「あなたのためにこれだけのヒューマンリソースを費やした」の交換から「あなたのためにこれだけのマシンリソースを費やした」にすり替えてはどうだろうか。この文化変容はあり得ることだ。事実、上司宛の年賀状の宛名をプリンタで毛書体印刷することは失礼でない。年賀状のために、普段は使わないフォントを調達して印刷することがメッセージとして機能している。では、たとえば、将来においてこういうメッセージは存在しえないだろうか。「あなたとの過去のやりとりを私は大切に保存して、統計情報を蓄積しており、あなたとの会話は他の人よりも1桁小さい実行時間で研削できるようになっている。今回はあなたの好みに合わせてこれだけのFLOPsを費やしてあなたのための挨拶を生成した」
このようなマシンリソースの量を媒介とする好意情報の伝達を実現できたら、そのためにヒューマンリソースを費やす必要がなくなって真に建設的と言えるだろう。しかし、上のメッセージ例には問題がある。マシンリソース量をそれ自体として示すと露骨でいやらしいのである。これを露骨でなくすためにはマシンリソース量の暗黙の伝達はコモディティ化しなければならない。マシンリソース量が伝達されることは当然であるという文化がまず先になければならない。その文化があれば、非情緒的情報伝達においてはリソース量情報は単に無視され、必要な場合にのみ受信者が情報を抽出するだろう。
マシンリソース量伝達のコモディティ化のためにはどのような場の形成が必要だろうか。
性同一性障害関連の記事を書く度に調子を崩す。
要するに、私にとってこれだけが問題なのだ。性別違和に自己同一性を脅かされること、そこから意識をそらして生活する習慣を一旦停止して問題を見つめる行為。それが私の抑うつ症状や不安症状やの源である。ま、分かり切ったことだけど。
今まで何回か、回復して、再発して。再発した中でも改善して、悪化して。一進一退。 再発のきっかけはやはり「記事を書くこと」だ。記事を書いて、悪化して、為すべきことを為せない状態になる。だから、私が情報を発信することは私の社会適応を妨げている。
けれども、情報を発信して後に続く当事者の役に立つこと。それこそが私の目下の第一の目的なのだ。そのためならもう少しだけ生きてみても良いと思ったのだ。この目的を捨てたら、私はまた元のように得たいものもなく、ただ絶えざる性別違和の苦痛に苛まれる以外に意味を持たない日々を過ごすことになる。喜びはあるだろうけれども、全部の喜びを捨ててもこの苦痛から解放されるならそれで構わない。人生の喜びはこの苦痛とは釣り合わない。
だから、不利になると分かっていても私は記事を書くだろう。それはそれで喜びには違いないし。それで生きていけなくなったら、それは仕方がないことだとずっと前のあのときに決めたのだ。