一昨日、仕事中にパニック発作を起こして死ぬかと思った。何とか作業を進めたものの予定より遅れ気味。心臓が随意筋だったらいいのに。
昨日今日と断続的に発作を起こしてまともに思考できない状態が続く。ゼミの準備が全然できてない。
ここしばらく栄里ちゃんが不調な様子なので、泊まりに行っていた。今週は、申し訳ないけれど私もあんまり余裕がないので自宅でゆっくりさせてもらっている。栄里ちゃんと一緒にいるのは楽しいし、ご迷惑でさえなければ喜んで遊びに行く。それでいくらかでも役に立てるなら嬉しいことこの上ない。でも、こうも不調だと自宅でゆっくりしたい。
いくらでも眠れるし、疲れやすくなって、習慣的作業以外何もできない。何もする気がしない。好きな本を読んでも好きな音楽を聴いても楽しくない。いかにもな症状が出てきた。こんな状態でこの先やっていけるのか不安。
2004.04.27
なんか、最近報道される大学改革が不穏な感じ。石原都知事の都立大学構想もそうだし、国立大学の独立行政法人化にともなうあれこれもそう。とにかく、今すぐ役に立つことが重要視されている気がしてならない。でも、「真面目だけど役に立たなそうな研究」こそ国立大学がやるべきことじゃないんだろうか。
人類の歴史を見れば今すぐには役に立たない、儲からない、果たして何かの役に立つかどうかすら疑わしい、そういった事柄を研究しておくことは必要不可欠といえる。あらゆる代数方程式を何が何でも解いてみたい、その方が美しいというあまり役に立ちそうにない趣味的ともとれる研究無しには今のような代数体の理論は無く解析学の豊かさも無く、物理学の発展は得難かったであろうし、気象衛星を打ち上げることもできなかったろう。気象予報といえば、確か四元数も使われてた気がする。あれも、数の2次元への拡大を更に3次元に広げてみたらどうだろうというハミルトンの日常生活にはあまり訳に立たなそうな思いつきから始まっている。
一見すると日常生活や経済的発展にとって無価値に見える研究のための研究の中から、100年後あるいは1000年後の人類に不可欠な技術が生まれてくるのは歴史の示すところによればほぼ確実だ。しかしどの研究がそうであるのかはそのときにならなければ分からない。だから、社会に余裕のある限りそうした研究のための研究を許しておくのは必要なことだ。
民間に、「1000年後に儲かるかも知れない」研究を期待するのは無理というものだ。だから、それは公が主にやるしかない。特に、地域住民のために存在する地方自治体ではなく、国が中心的にやるべきなんだろう。
2004.04.05
Servlet/JSPにもすっかり慣れた。Strutsも何となく分かってきた。楽しくて仕方がない。昨日から何回も繰り返したインストール作業をメモする。Windows 2000/XPへインストールした。
2004.03.29
木曜日は卒業式だった。とにかく卒業。行く先々で袴を着るように勧められたけど、結局、スーツで出席。志乃お姉さまはチャイナで出席したらしい。さすがさすが。
金曜日は、アルバイトの面接に行って即時採用。だけど、少し期待されすぎて荷が重い。まぁ、頑張りましょう。そういえば、先日面接に言ったところは落ちたらしく、そのまま連絡がない。
そのまま、夜はサークルの卒業飲み会。それにしても、「卒業だぁ」っていう感慨があまり無い。どうせ私はそのまま院に進学だし。仲のいい人たちのほとんどは当面は東京勤務なので、休日に会う機会も多少はあるだろうし……。
本日、ホルモン投与の2回目で左肩に注射した。午後はバイトの初回で、ドキドキしながら行ってみたものの、とりあえず環境構築と現況のソースコードを読むだけ。本格的に始まるのは明日かららしい。
何しろ、C++ほどには慣れ親しんでいないJAVAの仕事だし、経験の浅いサーバーサイドの仕事だし、やっていけるのかどうか不安で仕方がない。……でも、隣にいたバイトの人はなにやらJAVAそのものに慣れてないみたい。少し安心してしまった。ゴメン。
2004.03.29
ホルモン療法の初回だった。紹介状を持って近くの病院に行き、診察の後、検査のための採血、それから卵胞ホルモン(ペラニンデポー 10ml)の注射。全部で3時間ぐらい。
注射はとりあえず毎週おこなうことになった。2週に一度とか、経口薬を併用するとか、そういう選択肢もあるにはあるらしいが、こちらは肝臓への負担が大きくなる。
午後は、ゼミのメンバーでお昼を食べた。それから大学に行き、教授のところに山のようなシフォンケーキを持って遊びに行った。
ところで、折り紙は「定規とコンパスによる作図」よりも大きな体を生成するらしい。任意角の三等分問題も立方体倍積問題も、折り紙ではできてしまうというのだ(数学セミナー1980年の、えーと何号だっけ?)。折り紙を折ることに相当する操作は何次の方程式なのか、少し考えたけど直ぐには分からなかった。有限次代数拡大には違いないのだろうけど……。
2004.03.22
昨日付で、ジェンダークリニック委員会からホルモン療法の承認がおりた。今日、あべメンタルクリニックで紹介状を貰ってきたので、近いうちに病院に行って来る。
阿部先生によると、昨日承認がおりた人たちがみんな揃って紹介状を貰いにやって来て、今日は私が5人目だったらしい。時間的に、私以降も何人か来たんじゃないかと思う。
2004.03.19
NATROMさんという方の「科学主義は、疑似科学と同じぐらい有害だ」を読んだ。私が漠然と思っていたけどうまく言えなかった内容に近い。でも、このサイトはとても分かりやすくまとまっている。
この人の用語法とは少し違うけれど、私は「科学教徒」だ。科学的事実はすべて真実であると信仰している。でも、これは信仰なのだ。真実について、科学が聖書よりも正確な情報を提供してくれるという保証はどこにもない。少なくとも科学の中にはその保証はない。ある仮説が科学的事実であるか否かについて科学は回答できるが、科学的事実が真実であるか否かについて科学それ自体は何も保証してくれない。それでも、私は科学的事実は真実であると確信している。科学的事実と聖書の記述が矛盾する故に、逐語霊感主義(聖書の内容は一字一句そのまま事実であるという思想)は間違っていると思っている。これは信仰である。
ただし、私は科学以外にも真実へ到達する方法があることを否定しない。でなければキリスト教徒を自称したりしない。神の実在や人権主義の正義を私は信仰しているし、少なくとも後者の問題について科学は絶対に回答し得ないと思っている。前者も多分回答し得ないだろう。
私の信仰はそんな感じ。NATROMさんが言う意味での「科学教」の信徒、つまり傲慢に宗教を見下す類の人々は、自分が科学を「信仰している」という事実を知るべきじゃないんだろうか。そう言う意味では、『悪魔の発明』に収録されている牧野修の「<非−知>工場」は良かった。
2004.03.18
Nikita SidorovのAlmost every number has a continuum of beta-expansionsが面白そうだったので読んでみたらβ展開にはまった。とりあえずSidrovがオンラインに公開しているペーパーは読み漁ったけど、参考文献の幾つかがオンラインでは手に入らず、いまいち良く分からない部分もあるので、明日学校で探してみる。
1960年前後に主に研究されてたのが、最近になって急にまた盛んになってるのはこのP. Erdösの"Characterization of unique expansions ..."っていうのが何かブレークスルーになったんだろうか。まずこれを読んでみないことには……。
ちょっと面白いことも思いついた。
2004.03.17
そういえば半月ほど前に、田辺聖子が大相撲について新聞に書いていた。大相撲大阪場所の慣例となっている大阪府知事賞の授与に際して、女性である太田知事を土俵に上げてよいかというあれだ。
結論から言えば私は土俵に上げることには反対なので、その通りになっている現状はまあ、よいのだけど、それに関する新聞などで目にした議論には2点不満があった。まぁ、この問題に関して雑誌類にはあまり目を通していないので、どこかの誰かは私が望んでいる論点をちゃんと取り上げてくれていたのかも知れないが。
第1の不満としては、手続きがある。これは田辺聖子も少し書いてたか。やはり美しい日本の伝統から言えば、知事からの公式な働きかけがある前に日本相撲協会側から「大変失礼ではあるけれど、土俵に上がって頂けない以上は賞は辞退したい」と伝え、それに対して知事側から「代役を立てるので是非受け取って欲しい」とくる、こうくるべきだろう。土俵に上がりたがる知事も、代役を要求する相撲協会も図々しい。
第2の不満としては、反対論者は大相撲ひいては日本の伝統的神道の価値観を相対化していないことがある。相撲協会の立場としてはフェミニズムに基づく合理性を要求されても困るというのは確かにその通りで、宗教的な善悪・聖性に関する感覚というのは「只そのようである(as is)」というところにその価値がある。少なくとも、そういう部分がある。何故それが正しいのか清いのかと言われても、そうであってそうと信じているからとしか言いようのない部分がある。それを否定したら多くの宗教は成立しないし、それでも宗教は必要なのである(必要ないという人もいる。ただし大部分は単に自己の信仰に無自覚な人であって真の無宗教者はそれほど多くはない)。
えっと、なんだっけ。話は逸れたけれど、とにかく、この種の価値観に対して無条件に合理性を押しつけることは正しくない。しかし一方では、この種の価値観を合理性や、その宗教の枠外にいる人の価値観に対して無条件に優先させることもまた、正しくない。私は「真理を伝える我々に逆らう人間は罪である。これ以上業を重ねる前にボアしてやるのが慈悲」という善悪の判断を正しいと思わないし、「逆らう者は腹を切って死ぬべきだ。地獄の炎に投げ込む」という教えも正しいと思わない。世の中にはこの種の価値観を合理的なあるいは枠外の価値観に対して無条件に優先させてよいと考える人もいてサリンをまいたりいろいろするわけだけれど、私は賛成しない。
では、この種の受け入れがたい価値観と、大相撲のように一定の支持を集めている価値観の違いはどこにあるか。端的に言ってしまえば数の違いなのかもしれない。しかし、どこかの新興宗教がテロによって政権を転覆し支持を集めるようになったとしても、それでもやはり反対者にVXガスを浴びせたりするのは正しくないと私は信じたい。だとすれば、根拠を数以外に求めるほか無い。もう一つ違っているのは(そしてこれこそが数の違いにもつながっているのだと思うけれど)トレードオフではないだろうか。
まず、知事を土俵に上げるとどのような利益があるか。まず、女人禁制とされた場所が1つ減ることにより、女性を不浄とするような価値観の変革につながり、これによって不当に女性を低く見るような社会制度を是正していくことにつながる。また、晴れの場に女性が参画することによって、女児に対するロールモデルの役割が期待でき、女児が不必要に自己を抑圧することなく才能を十全に活かして社会に貢献できる人間に育つ可能性を高める。しかし、これらの効果は非常に薄い。特殊な場の1つくらいを、女人禁制を破ったとしても全体の価値観への影響は少ない。もっと女性が進出すべき場は他にいくらでもある。あるいは、男性が進出すべき場も。ロールモデルとしても、わざわざこういう場を用いなくとも大阪府知事であることで十分である。加えて言うなら、逆知事が土俵に上がらなかったとして、今時そこから「女性=不浄」の観念を一般の社会に拡大して学習したり、そこに深刻な抑圧のモデルを見出して自己抑制してしまう児童はほとんどいないだろう。
一方、土俵に上がることで「ただ今あるようにしてある」という状態は完全に破壊されてしまう。日本の伝統と文化を築いてきた1つの宗教の、その聖性の感覚を破壊することにつながる(多くの宗教にとって、境界線と聖性という感覚は重要なものだ)。
結局、土俵に上がることで僅かながら利益がある。しかし利益は僅かに過ぎない。一方、大きな損失がある。上がらなかったとして、損害は殆ど無い。従って、上がるべきでない。
どちらが正しいかとか、例によって例のごとくのフェミニズムと反フェミニズムの争いとか、そういったものではなくこういう議論を是非して欲しかった。まぁ、私が読んでいた新聞の程度の問題だったのかも知れないけれど。
2004.03.16
今までのアルバイトはプロジェクトが初期の目標を達成して終了したので職場消滅。新しい職を求めてフロムエーを見ていたら、まさに好みな感じの事業内容の会社を見つけてしまって、今日面接に行ってきた。
話を聞いてみたら、私が期待していたややハード寄りな開発路線は最近縮小気味らしいものの、それでもウェブ関連の事業展開の全体的印象やサイトから感じ取れる社風は魅力的。
GIDなのを隠すつもりもないし、というか、性自認を偽った状態で生産的な活動をすることは今の私には無理なので、GIDを長所としてひたすらアピールしてみた。この問題の御陰で色々考えさせられてはいるし、精神的ダメージに対する対処法もそれなりに身に付いている。周囲と協調する術も。そんな感じで。
少なくとも、技術的レベルには興味を示して貰えた模様。今まで学内で依頼を貰って仕事をしていたのもセールスポイントにはなったか。あとは、学生故に時間的に完全には自由でない点がどう評価されるか……。
2004.03.11
卒業発表会の準備で忙しかったり、また最近のウェブでの活動は専らウィキペディアの執筆だったので、すっかり更新しなくなってしまった。更新しなかったらお叱りを受けてしまったので、今日はよい事もあったことだし、書いてみる。
今日は久しぶりに友人が地元に帰ってきて、その子と恵沙奈さんと3人で近くの居酒屋に……。話しに話し、ガーリックポテトフライのあまりのおいしさに全員感激して3回も注文してしまい、そんなこんなで帰ってきた。
2月にはホルモン療法に関する医師の意見書がセカンドオピニオンまで出揃い、3月18日にはホルモン療法の可否を委員会の審議に掛けて貰えることになった。途中の鬱のためにずいぶんと時間が掛かったけれど、これでようやく少しだけ生活が安定すると思う。
そういえば、以前わらびメンタルクリニックの待合室であるFtMの方が仰っていた言葉がとても印象に残っているので、書いてみる。「GIDの精神療法はまず、これから先自分はどうするのか、これから先第2段階以降の療法を受けて生活していくのを希望するとして、そのためにはどうすればよいのか、そういうことを医師に相談するつもりで受けに来ればよい。GIDや、それを受け入れて生きていくことについて分からないことがあれば何でも聞けばよい」。私も最近になってようやく、精神科医に会って何を話せばよいのか分かってきた感じで、もっと早くこれを聞ければよかったと思う。ので、誰かがこの言葉を目にすることを祈って、書いておく。
2004.03.06
やや不調気味で、2004年が始まった。ここ一週間はパニック発作が酷く、異常な脈拍が続いたり、呼吸ができなくなったりしてボロボロだ。その中では今日はかなり調子がよいのでこうして文を書くこともできるものの。
何しろ、ゼミはいよいよ終わりに向けて忙しい時期だし、バイトのほうはプロジェクトが大詰めだし、そこを人間は気合いだと無理に乗り切ろうとしたのが行けなかったか。
努力と根性という言葉は結構好きだ。この類のあやしげな精神論を他人に向けて振りかざす人間は大嫌いだけれど、自分で自分に向けるのは好きだ。どうしても自分の努力は過大評価しがちであるし、あやしげな精神論で補正して丁度いいぐらいだろう。
……ではあるが、うつ・パニック系の不調をそれで乗り切るのはやはり無理があったかも知れない。「頑張ろうとしてはいけない」のは知っていたけれど、うーん、やはり医師達の経験則から導き出されたこの種のセオリーをもっと尊重するべきだった。根性で何とかしようとして、何日かベッドから動けなかったり、手が震えてタイプできなかったりで結局仕事はやや遅れ気味。こんな状態でまともに設計できるはずもなく、書いたソースコードは軒並みスパゲティで、それが余計に気分を落ち込ませる。こんなの私のコードじゃない。
2004.01.01